KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

力の抜けた日記

 「なんか最近の日記、力抜けていない?」と妻から言われた。彼女はけっこう律儀に私の日記を読んでいてくれるようだから、的確な観察かもしれない。確かに昔の日記は、かなり肩に力がはいっているような気がする。最近のは、それに比べるといくぶんか力が抜けているようだ。力を抜くというのは意外に難しいことだ。「力を抜こう」と意識すればするほど力がはいってしまう。力が抜けている文章になってきたのは、慣れてきたからだろう。

 データを取っておけばよかったのだが、少し前までは午前中に日記を更新していた。最近は夕方近くになることが多い。一日の仕事が終わってから日記を書くようになってきたからだ。午前中に書いてしまうと、なんだかそれで一仕事こなしたような感覚がするので、よくないということがわかってきた。そうではなく、一日の仕事を終えてから日記を書けば、それが楽しみにもなるし、仕事を早く終えようという動機づけにもなる。

 ネタ帳をつけるという習慣は定着した。日々の出来事でも、人との会話でも、読んだことでも、他人のWeb日記からでも、気になったことはメモしておく。それらすべてが書くネタになるわけではないが、日記を書くときはそのネタ帳をめくりながら考える。ちなみにネタ帳にはコクヨフィラーノートのB5版を使っている。一冊終わると、ページを切り離して二穴バインダーに綴じ込んでおけるので便利だ。

 ところで、力のはいった文章が悪いかというとそんなことはないと思う。僕自身はむしろ力のはいった文章の方が好きだ。思い入れをぎゅうと押し込めたような文章が好きだ。そんな文章を読むと確かに疲れるけれども、そのほうが好きだ。力を込めすぎて空回りしそうなごつごつの文章が好きだ。

 力の抜けた、読みやすくて、ほどよいユーモアがただよう文章は確かに読んでいて楽しい。それはお金の取れる文章である。ごつごつとして、正確第一の、責任の所在を明確にした文章は、それを読んだ読者を疲れさせ、考えさせる。読者を考えさせたり、疲れさせたりするような文章にお金を払おうとする人々は少数派である。読者の代わりに考えてくれて(つまり読者を考えさせないで)、その内容や結論をわかりやすく伝えてくれる文章に人々はお金を払うのである。

 要するに、私はそれを読むと、有無をいわさず考えさせてくれるような文章が好きなのだろう。口当たりがよく、思わずなるほどといってしまうような文章には必ずインチキが隠されているという偏見を持っている。しかし、「一度読んですっと頭にはいってこないような文章は単なる戯れ言である確率が高い」というD. A. ノーマンの意見にも同意する。最終的には「読みやすくわかりやすく、インチキがなく、読者を考えさせるような」文章が一番であるという結論に行き着く。でもそんな文章はなかなかないから、読みやすさを犠牲にしても、インチキがなく、読者を考えさせるような文章が好きである。