KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記猿人ヌーディスト・ビーチ論

 香子さんの日記が終わりになるということだ。熱心な読者ではなかったが、時々は読ませてもらっていたのでちょっとさびしい。しかし、またこれも私の持論だが、書く人はどういう形になっても書くはずなので、日記猿人という場を他の場所に変えるということにすぎないのだと思う。とはいえ、私にとっては日記猿人というシステムはもう自分の通いなれたプラットホームになってしまっているので、そのプラットホームからいなくなってしまうのはさびしい。

 香子さんの猿人最後の日記を読んでいると、登録番号1933の私には知らないいきさつやしがらみがいろいろとあるようだ。それについて私がコメントすることはできないし、またそうしようとする興味もない。初期の日記猿人登録者の間には、同一コミュニティ居住者のような感覚があるように見受けられる。それは連帯感という形でも、逆に反発心という形でも現れてくるようだ。いずれにしても、登録者同士のなんらかのやりとりや言及があるということだ。

 私にとっては日記猿人は、通いなれた便利なプラットフォーム以上のものではない。逆に、だからこそ愛着心は一層強い。あるリンク集に集まる日記書きがコミュニティを形成しているかというならば、それはない。コミュニティの定義にもよるが、少なくとも、利害や一定の価値指向性を共有した共同体とは言えないと思う。ただし、初期の日記猿人には、ある事件や人物を通して、利害や価値観の共有ということが起こったのかもしれないと想像する。

 日記を書いて公開するということは、これ以上ない自己開示の行為だ。変なたとえをしてみれば、ヌーディスト・ビーチにいるようなものである。もちろん自分は裸である。ヌーディスト・ビーチがコミュニティになるかといえば、それはならないと思う。ビーチの一員になるためには、ただひとつ自分が裸になればいいだけの話だからである。ビーチから出れば普通に服を着るのであるし、ビーチから出て行くこともまったく自由である。ヌーディスト・ビーチのメンバーが一致団結するときといえば、ビーチ荒らしやその類のことが起こったときに限られる。そのとき以外は、お互いに、性別や年齢や職業などあらゆる社会的バックグラウンドに共通性のない人々が集まるのである。ただヌードであることを楽しむために。