KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

恐るべき2歳児/さるさる日記のWeb日記

 昨日は、さて日記を書こう、とエディタを広げたまではよかったが、眠くなってしまい、かけずじまいだった。そんな日もある。今日、起きてみるとなんだか身体がだるい。妻も同じ症状。変な天気のせいか。一日中、でれでれとして過ごす。

 妻によると、「恐るべき2歳児」という言葉があるそうだ。自我が芽生えてきて、言葉もわかりかけてくる。そうすると、なんでも「自分でやる」と主張し、自分ができないものは「あなたがやれ」と命令する。そして、自分が嫌なものは「いやいやいや」と叫ぶ。

 言葉がわかる、とはいっても、まだ時間の感覚があやふやだから、約束ができない。「これは明日やろうね」といっても、「明日」がよくわからないので「いやいやいや」ということになる。

 歯を磨かせるために、ジュースを好子(ごほうび)として使う。「ジュースを飲んだら歯を磨こうね」という約束をさせるのだが、これは失敗する。約束の概念がまだないので、ジュースを飲んでも歯を磨かせようとしない。歯を磨いた「直後」に好子(ジュース)を与えることが必要なのだが、そうすると歯を磨いた意味がなくなってしまう。ジュースに代わる好子を見つけださねばならない。行動分析学に基づくしつけはけっして機械的な訓練ではなく、創造性を発揮しなければならない仕事だということがよくわかる。

 最近、「さるさる日記」というサービスサイトで書かれているWeb日記に注目している。このサイトは日記を書くことに特化したサービスで、システムがシンプルで書きやすい。その中で書かれているWeb日記は「プライベートな日記」をそのまま転送したような日記が多い。

 日記猿人に登録しているWeb日記は、「日記猿人というある種のコミュニティに属しているような感覚」と「それに基づいて、他者が書いた日記内容への言及や日記書き行動への言及」があることが特徴だ。これはさるさる日記に登録しているWeb日記にはほとんど見られない特徴だ。さるさる日記で書いて日記猿人に登録している日記もあるけれども、例外的だ。むしろこの場合、日記猿人でのWeb日記として分類されるべきだろう。

 さるさる日記の日記をいくつか読んでみると、読者への意識や配慮は弱い。また、他の日記に対する言及はほとんど見られない。また、自分の日記ページに対するデザイン的なこだわりも少ない。これは背景やテキストの色を変えたり、背景に画像を貼ったりすることはできるものの、基本的にはテキストだけの勝負になっているせいだ。文章のスタイルは、改行文体(適度なところで改行をする)がほとんどである。

 日記猿人の日記にどっぷりつかってしまっている私にとって、さるさる日記の日記を読むことは新鮮だった。日記猿人では、明示的にも暗示的にも他者の日記内容に対する言及がよくある。暗示的であれば、「この文章はいったい誰のことを言っているのかな?」というような想像を否応なくめぐらせてしまう。トラブルが起これば、それはいっそう活発になる。ある人が提示したトピックをめぐってさまざまな意見が交わされることも日常的なことだ。それが日記猿人の日記の特徴だ。しかし、そうでない種類のWeb日記もある。

 淡々と毎日をつづる日記。うれしいことやむかついたことは起こるけれども、それは私の全く知らない人の日常のひとつとして起こる。私はその詳しい事情や背景を知らないし、日記作者もそれを詳しく説明しようとはしない。詳しく説明されれば、共感や反感が生まれるかもしれないが、そこまではいかない。読者への意識が薄いところで書かれているからだ。一方、読者も読み手としての意識は薄い。喫茶店で偶然となりの席に座った人の世間話を聞くような感覚に近い。

 そういう日記を読んでいると、またもうひとつ別のWeb日記のスタイルがあることを再確認する。