KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

「露出系の人たち」

そもそも人には見せないはずの日記をインターネットで公開する人もいる。神奈川在住のななゑさん(29)が書く「ちゃろん日記」は約千五百人の固定読者を持つ。日記は三年目に突入した。(中略)
「駅でころんだところを他人に見られるのは死ぬほど恥ずかしいけれど、そのことを面白おかしく書いた日記をネットで読まれるのは全然平気。勝手に見られるのと、自分で発信している違いかな」(中略)

「友人からは変わり者だと思われているが、自分では普通だと思っている。日記で感じたことをそのまま書いて、『私も同じです』といった感想をもらうと、ほらやっぱりみんな同じじゃない、と確認できて安心できるんです」

  • 山内浩司「露出系の人たち」(AERA 99/4/19)

 「そもそも人には見せないはずの日記をインターネットで公開する」と考えると確かにこれは奇妙な現象かと思える。しかし、実際はそうではなく「インターネットで公開するために日記を書いている」というのが本当のところなのではないだろうか。少なくとも僕はそうだ。

 「日記」ということばには「秘密の、プライベートな」という意味が含まれている。だから、これを日記と名付けるから奇妙な感じがするだけで、一種のミニコミ記事だと思えば不思議ではない。私的なミニコミ誌をインターネット上で毎日発行する人たちが出てきたということだ。

 このAERAの記事がななゑさんの発言をどれほど正確に再現しているかはわからない(記事になると発言のごく一部が曲げられて引用されることがあるらしい)。しかし、「駅でころんだところを他人に見られるのは死ぬほど恥ずかしいけれど、そのことを面白おかしく書いた日記をネットで読まれるのは全然平気」という発言が興味深かった。「死ぬほど恥ずかしい」という感情と「それを面白おかしく書く」という行動は表裏一体のものかなと感じた。

 普通の人は死ぬほど恥ずかしいことは書かないものだ。それを書かせるものは何なのかということ。それは他人が自分をどう見ているかと言うことを強く意識しているということだろう。死ぬほど恥ずかしい感情を突き抜けると、それをすべて公開して読んでもらいたくなる。こうした場合は「露出系」という命名は当たっていると思う。

 しかし、たとえば日記猿人Web日記の多くは「露出系」ではないと思う。私のこの日記も露出系ではない。死ぬほど恥ずかしいことはたぶん書かない。また、日記を書いて「『私も同じです』といった感想をもらうと、ほらやっぱりみんな同じじゃない、と確認できて安心できるんです」ということはまったく、ない。安心するために日記を書いているわけでもないし、みんな同じだということを確認するために書いているわけでもない。

 日記を書いて、それに対する賛同や共感のメールをもらって感激するという人は多いようだ。それは他人からどう見られているかという自意識の強い人たちだ。だから多少書くのにためらわれるようなことでも(勇気を絞って)書いて、それを読んだ人がどういう反応を示すかを確認してみたいという願望があるのだろう。こういう人たちは、読者の反応がなくても、また反発の反応をされても、それに対する耐性が弱い。だからやめてしまうか、あるいは読者の共感を得ることを前提とした日記を書くようになっていくという力学が働く。

 自意識が強いということには別の種類のものがある。それは他人に関係なく、自分が自分自身をどう見るかということに敏感な人たちだ。こういう人たちは、みんな同じだといって安心することはけっしてない。また共感だろうが反発だろうが、読者の反応を気にすることもない。彼らはただ自分のために書く。それは終わりのない旅のようなものだから、書いて安心するということもない。また安心するために書くわけでもないのである。