KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

本当に楽しみたければ日記に書いてはいけない

 テレビの天気情報を見ていると、日本全国で暑いようだ。典型的な夏休みの一日。たまには父親らしいこともしなくちゃいけない。娘を連れて、近くの魚津水族館に行って来た。大阪の海遊館には、かなり負けるけれど、大きな水槽にエイが飛んでいたりして、なかなかである。あいなちゃんは、ウミガメとアザラシはお気に入りだった。しかし、ペンギンはいまひとつだった様子。私的には、巨大ウツボというのが、本当に大きくて長くて、不気味だった。しかし、この暑いのに野外でじっと立ったままのペンギンは、これでいいのだろうか。それとも暑い環境に適応したのか?

 いろいろな日記で紹介されている「PC汚染度」という自己診断をやってみた。穏健に答えるようにしたつもりだが、次のような判定が:

あなたは 119.35%
コンピュータに汚染されています。

あと一歩で駄目なレベルになるところです。
立ち直ることはすでに無理でしょう。
でもコンピュータの無い世界には未練も何もないでしょうから、
さらに上のレベルを目指して修行する必要があります。
どちらにしろ、一般レベルからかけ離れていることだけは確かです。
世間の人から白い目をむけられても恥ずかしがらない鍛練が必要です。

 「コンピュータのない世界」かあ。それもまたいいんじゃないかなあ。タイのサムイ島を思い出す。あんなところにいれば、また違った生活が開けてくる。コンピュータが手近にあるので、こうしてつい書いてしまう。もしなければ、ビーチで一日中海を眺めているのかもしれない。一年中そうしていたいとは全然思わないけれどね。だっていずれ飽きるもの。

 きのう取り上げた「科学が作られているとき」の中にこんなようなことが書いてある。事実は、それについて書かれたものが読まれ、引用されたときに事実になる。無人島に一人で暮らすとすれば、その人が見るもの、体験するものは、いったい事実なのか白日夢なのか、区別がつかない。

 とすれば、無人島で暮らすときに日記をつけるのは、それが夢ではなく事実であったということを確認するために非常に重要だ。逆に言えば、それが事実ではなく、夢であったのだと思いたければ、記録を取ってはならない。夏の日のアバンチュールをよい思い出にしたければ、それを記録してはいけない。バカンスを本当に楽しみたければ、それを日記に書いてはならない。ましてWeb日記にして他人に読んでもらうようなことは。それは美しい夢を、ごつごつした事実に変化させてしまう行為だ。

 自分が住み慣れたところからはるかに離れた遠い外国に暮らしているような場合、しばしば現実感を失う。ひょっとしてこれは夢なのかも、と思うようなことがある。タイの田舎に一年間暮らしたときも、そうだった。現実感を失うのは、めまいを感じる程度に不快なので、それを避けるために日記をつけるのである。文字に書き、それを自分を含め何人かに読んでもらうことによって、かろうじて現実感を取り戻す。それは書くことで、白日夢を事実化した効果である。Web日記を書いている人に、海外在住の人が、割合として大きいのもこのせいかもしれないと思っている。