KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ブルーノ・ラトゥール『科学が作られているとき』

科学が作られているとき―人類学的考察

科学が作られているとき―人類学的考察

 帰りの電車の中で、ブルーノ・ラトゥール「科学が作られているとき……人類学的考察」(産業図書、1999)を読む。睡眠導入剤のつもりだったが、面白くて眠れないし、同時に、密度が濃くて、すらすらとは読めないので、とても疲れた。実は、全体の半分しか読んでいないのだが、もう読んだことにする(面白すぎるので)。この本の分量を半分にして、平易に書き直したら、爆発的に売れるだろう。

 この本は、科学が「どのように作られていくか」ということを明らかにしている。「作られている」というのは何も、名誉や圧力に負けて、科学的事実を捏造してしまったというような場合だけではなく、現在では適切な科学的理論や事実として受け入れられているケースが、どのようなプロセスを経てそれとして成立するのかということを詳細に検討する。

不幸なことにほとんど誰も作成段階の科学に関心を抱いていない。作動している科学の示す無秩序な混合物に躊躇し、科学的方法と合理性という秩序だった型の方を好む。科学と合理性を擁護し、疑似科学や詐欺や非合理に反対することに忙しく、それを研究することができない。

技術革新の経済学者は技術の社会学者を無視し、認知科学者は科学の社会的研究を決して用いず、エスノサイエンスの研究は教育学から遠く隔たり、科学史家は文芸研究やレトリックにほとんど関心を払わない。科学社会学者は自らの学問的研究と憂慮する市民や科学者が行った「生の」経験との間に何の関係も見いださないことが多い。ジャーナリストたちが科学の社会的研究の学問的成果を引用することは稀である。

 どんな学問領域でも、研究に従事している人の多くは次の指摘にうなづくのではないか。

なぜほとんどの人々が科学のテクストを書いたり、読んだりしないのかが明らかになったはずである。何ら不思議ではない! 無慈悲な世界における特異な仕事だからだ。小説を読んだほうがましだ! 虚構(小説)を書くことの逆のこととして事実を書くことと私の呼ぶものは、可能な読み方を三つに限定する。諦める、ついていく、なし遂げる、である。

 科学的テキストに対しては、諦めるのが普通の対応で90%を占めると著者は見積もる。つまり90%の人は、どう思うにせよ、それを読まない。9%の人は、書かれたテキストを信じ、それについて議論する。そして議論されること(参照されること)によって、書かれたテキストは「事実」に変わる。そして、ごく稀な1%の人は、書かれたテキストを「もう一度行う」。論争を再開し、ブラックボックスとなった科学的テキストをもう一度開くためには、こうするしかない。

 やはり、この本は実際に読んでもらうしかない。最初は少しとっつきにくいのだが、研究に従事している人、科学に関心のある人には、絶対に面白いと思う。同時に、今自分のいるラボラトリーをフィールドワークの現場として、考え直してしまうような強い影響力を感じることだろう。