KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

大学の教科書がつまらない理由

 夏休み二日目。なんだか喉が少し痛い。夏風邪をひくとまずい。お嫁ちゃんに怒られる。いつも私が風邪をひいては、家族中にうつしまくっているという前科があるからだ。それでイソジンでうがいをして、家でごろごろして、高校野球を観ながら、安静を保っていた。実に、非活動的な一日であった。そのおかげか、夕方頃からだんだん調子が良くなってきた。

 「週刊現代」の8/21-28号の「江戸学博士・山本博文のサラリーマン武士道」という連載記事にこんな書き出し:

 率直にいって、われわれのような大学の教官は、なぜか自分を武士だと思っている人が多い。

 たとえば、いかにも売れそうな本を書くと、学者の風上にも置けないと思われる。原稿料や講演料など、金銭の話をするのを躊躇する。これらは、武士の発想である。

 なるほど、確かに原稿料や講演料などの謝礼の話はなかなか切り出しにくい。しかし、原稿料はたいてい出版社によって規定の額が決められていて、交渉の余地はあまりない。原稿依頼をもらった時点で何文字でいくらというのがわかるし、しかもそれが、思わずニコニコしてしまうほど高額であることはないので、原稿料は関心の外ということになる。私の先輩の言葉だが、「お座敷がかかるうちが華」だと。

 講演の方も、そもそもお呼びがかかる回数が少ないのだが、呼ばれるだけうれしいということで進んで仕事を受ける。話を聞いてもらってうれしいという感じだから、講演料も関心の外だ。タダじゃやらないけどね。もっともタダでやってくれと頼みに来る人もいないよね。

 引用した記事では、大学教員は自分を武士と考えている、と書いているが、私の感覚ではまったく違う。「お座敷」理論でわかるように、芸者だと考えている。だから売れる本を書いている教員はすごいなあ、と思う。内容はどうであれ、売れる本を書けるということ自体が才能であり、努力の結果であると思うのだ。書いた本が売れすぎて、書く時間が欲しいといって、大学教員を辞めてしまったという例がいくつかある。

 大学教員が原稿料に無頓着なのは、書いても原稿料がもらえない論文というものを書く習慣があるからかもしれない。論文の場合、へたすると逆に作者が掲載料を支払わなければならないこともある。年月をかけて、苦労して論文を書いて、レフェリーにさんざん意地悪なことをいわれて、やっと論文を公開しても、読むのは自分と数名、もちろん原稿料もない。こういうシステムの中で生きている教員は、サービス精神のある文章は書けないと思う。そもそも文章を書いてお金をかせぐという感覚がない。大学の教科書がつまらないのはこのせいだろう。