KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

リンクと引用の違いがケンカに及ぼす影響

 夏休み三日目。とはいえ、週末でもともと休みか。ごろごろしながら、高校野球ときどき日記読みという風情。

 日記読み日記を始めてから、前よりも注意深く日記を読むようになった気がする。他人の日記を読んで、気に入った部分を切り取ってくるという行為にはどんな意味があるのだろうか。

 他人のページを参照するには、リンクするという方法がある。WWWの特徴的な仕掛けであり、一番確実で間違いがない。リンク先は、その作者が構築した文章で固められ、文脈が作られているから解釈の間違いようがないのだ。だからWebページを書く人は、最初から自然にリンクの方法を優先して使ってきた(たとえば「ここを見てね」などの方法)。それは、パソコン通信の会議室で「> 引用文」だらけになるのとは対照的にスマートな方法だ。

 リンクに対して、コピー・ペーストで相手の文章の一部分を自分のページに切り貼りするということは、相手の発言を力づくで自分の文脈に組み込んでいる。ラトゥールの「科学が作られているとき」に書かれていたが、あらゆる引用は自分の都合のいいようにできる。たとえ反対意見であろうと、批判意見であろうと丸めることができる。引用しない場合は、それを無視したという意思表示になる。会議室や掲示板でケンカが始まると、その問題のサイズ以上に紛糾が長引くのは、この引用システムのせいだろうと私はにらんでいた。

 はたしてどうだったか。Webページ同士のケンカは、会議室や掲示板でのケンカとは比較にならないくらい、収束が速い。かならずしも収束しないで、物別れに終わる場合のほうがむしろ多いのだが、いずれにしても終結するのが速い。たとえばAとBがケンカしている場合、ギャラリーはAのサイトにいって事情を読む。そこではAのものの見方で一貫した文章が書かれているから、ふむなるほどといって納得する。さて、今度は対抗するBのサイトに行く。そこでも同じようにBのものの見方で一貫した記述がある。こちらもなるほど、だ。AもBも相手に対して決定的な一撃を加えられない。ギャラリーもどちらを応援するということもない。もちろんギャラリーは自分のサイトで論評を加えることはできる。しかし、それは論争には発展しない。自分のサイトだからだ。こうしてWebページ同士のケンカは泥沼になることはなく、終結が速い。

 良くも悪くも、個人のサイトはモノローグ的である。それは会議室や掲示板の対話性とは対照的である。そしてリンクという仕掛けを使うことによって、他者との関係を結ぶという姿勢をとりつつ、自分一人のモノローグをすることができる。他者を参照し、他者から参照されるための仕掛けであったリンクは、こういう使われかたをすることによって、自分一人の世界をたやすく固めるための仕掛けにもなってしまったわけだ。

 というわけで、他のサイトへのリンクを張るのではなくて、直接引用をするという方法を見直してみたい。それはWebの中では古くさい方法になってしまったかもしれないのだが。