KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

メタ日記再び

 「メタ」ということをめぐって、がくもんにっき(9/19)と凹型効用日記(9/20)から詳しい解説をもらった。勉強になる。meta-というのは、after, beyondという意味の接頭辞ということだ。

 ちょっとそれるが、がくもんにっきの中で引用された辞書(Webster's Colligiate Dictionary, 10th ed)に「メタ心理学」という例文があったのが気になった。聞いたことのない単語だったからだ。もしESPなどを研究対象とする「超心理学」の意味ならば「parapsychology」という用語がすでにある。辞書を引いてみると、para-というのは、beside, beyondという意味の接頭辞で、beyondという点でmeta-と似ている。しかし、「パラ言語」というような時は、言語とは言えない周辺的なもの(beside)……たとえば身振りなど……という意味だったと思う。

 メタ心理学ってなんだろう。気になる。他の「メタ」用語から類推すれば、「心理学についての心理学」とか「心理学を心理学する」のような意味になるはずだが。そうだとすれば、これはなかなか面白い領域かもしれない。

 さて、メタ認知からのメタ日記の類推だが、がくもんにっきではこう言っている。

ところで、ちはるさんは、「メタ認知」という用語の類推から、「自分の日記について検証する日記のみがメタ日記と呼ばれるべきではないか」とおっしゃっているが、それは必ずしも当たっていないと思う。「認知」は、外に向かって表出するものでない、内的作用であるからして、「メタ認知」が自己の認知についての認知という内的作用に限定されるのは当然だと思う。それに対して、「Web日記」は外部に発表される外的存在であるから、他人の日記を自己の日記の中で批評するものを「メタWeb日記」と呼んでも問題ないと思う。同様、他人の絵画について絵画という手段を用いて批評するものを「メタ絵画」、他人の小説を小説という方法論の中で批評するものを「メタ小説」と呼んでもおかしくないと思われる。

 なるほど確かに私の解釈は、メタ認知からの類推で「メタ」を狭く限定しすぎていたかもしれない。メタをもう少しゆるくすれば、たとえば「他人の認知についての認知」もまたメタ認知と呼んでもいいような気がするが、『認知心理学事典』を繰ってみても、メタ認知は「自分の」ものに限定されているようだ。よく考えてみると、私たちはなぜ相手の考えていることがわかる(主観的にだけど)のか、不思議でもある。まあ、そうじゃないと、こうして対話することもできないんだけど。

 「他人の絵画についての絵画」、「他人の小説についての小説」はメタ絵画やメタ小説と呼ぶこともできるし、その一部はパロディと呼ばれている。辞書によると、parodyの語源は「para-」から来ているということだ。

 よく、有名な作品のパロディを作って、原作者から訴えられたりするケースがあるけれども、あれは「パロディ」というのがまずいのかもしれない。「パロっちゃいました〜」という軽いノリではなく、「えへん、これはメタ絵画なのである」と主張すれば、なんとかなるような気もするのだが。ならんか。

 こうして見てくると「メタ」と「パラ」は親戚のようでいて、実はかなり違うものなのかもしれない。