KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

Web日記伝道者とミーム

 今日は祝日なのだが、休日移動システムを実行してみた。

 名古屋オフでの話は楽しかったが(9/10の日記)、その中で私は周りに「みなさん、Web日記を書きましょう!」と言っていたらしい。そのかいがあって、寺尾さんと道田さんが日記を始めたとのこと。道田さんの掲示板での発言:

実はてらおさんと同じく私も、オフ会に触発されて、日記らしきものを作ってみました(ちはるさんが「みんな日記書こう!」と連呼してましたよね)。

内容は読書の記録。ちょうど学会などで買いこんだ本が山積みなので、半分以上は自分用の覚え書き目的です。これを見れば、今、私が何に興味を持っているか丸分かりです。

でも、専門書を中心にした読書の記録を週2回(目標)なんてハードなこと、いつまで続くことでしょうか(できるだけ続くよう、あまり気合を入れずに書いていますが)。

 とのこと。どうもオフ会などでまだWeb日記を書いていない人を見ると、つい「あなたも書いてみませんか?」と誘ってしまうようだ。まるでWeb日記伝道者のようである。

 よく考えると、人間は誰でも何かを伝道しながら生きているのではないか。自分には一銭の得にもならないにもかかわらず、自分がこれはいいと思ったものを周りの人に広めようとする。

 たとえば、マック・エヴァンジェリストというのは良く知られている。マッキントッシュ・ユーザーがマックの伝道者になるのである。一方、ウィンドウズ・エヴァンジェリストというのは聞いたことがない。とりたてて伝道しなくても広まっていくからだろう。また、身近な例では、新しいダイエット法や、健康法などがある。これらが広まる初期には必ず多くの人が伝道者になっている。

 相対的に見て少数派が伝道者になる。良く聞いてみればなるほど良いものだと皆が認めるような美点を持っていながら、さまざまな理由で広まっていないもの……その第一の理由は、まさに知られていないから広まっていないという場合が多い……を人は広めようとする本能のようなものがあるのではないか。それを言い換えれば文化的遺伝子(ミーム)ということになるのかもしれない。

 伝道者には、その語源からして宗教的なにおいがする。それは伝道者が伝道しようとする「それ」を信じているからだ。あるいは「それ」に完全な信頼を置いている。「それ」が広まるかどうかは、初期の伝道者をどれだけ獲得できるかによっている。そのあとはたいてい経済のルールによって動いていく。初期伝道者をどれだけ獲得できるかは、「それ」がどれだけの信奉者を作り出せるかによる。信奉者を作り出すためには、「それ」がどれほど良くできているか、深みがあるか、精緻化されているかということによる。

 ミームになりうるかどうかは、結局そのできぐあいに依存している。偶然のブームでミームになることもあるけれども、それはほどなくして消え去る。完全に広まらなくても、長く残るものには必ず「良さ」がそなわっている。そして、それがマイナーである限り伝道者が活動する。まさにそのためにそれは消え去ることがないのである。