KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

エヴァンジェリストと押しつけがましさ

自分が「これはいい!」と見いだしたものを、自分のまわりにいる人に勧めることは自然なことだろう。たとえば、携帯電話の新機種とか、新しくできたお店など、気に入るものがあれば、友人に勧めたりする。

新製品やお店であれば、それを勧めるのは何の問題もない。しかし、勧めるものが「物」ではなく、ある種の「思想」であるときに、そこに押しつけがましさが生ずるのは避けようがないことだともいえる。しかし、その押しつけがましさこそが、エヴァンジェリストの落とし穴でもある。つまり、エヴァンジェリストがあるものを布教しようとすればするほど、周りの人は逃げていく。

エスペラント』誌の2001年7月号で、臼井裕之さんが次のように書いている。

エスペラントをいかに売り込むべきかというと、どのように国連に、政府に、またはNHKエスペラントを売り込むかという話と思われるかもしれない。そして確かにそれもエスペラント運動のレパートリーの一つではある。しかしわたしたちはあまりにもそういう売り込みばかり考えてきたのではないか。(中略)

世の中の人たちは「エスペラント国連に」という主張よりも、エスペラントがどのように使われているか、どのように言語として機能しているか、エスペラントにも文化があるのか、エスペラント母語話者とはどんな存在なのか…そういう話を聞きたがっているのである。(中略)この種の売り込み方をそろそろ身につけようではないか。

エスペラントが、特定の国家や、特定の社会集団の後ろ盾を持たないという事実が、エスペラントの国際語としての長所でもあり、同時に運動としての弱みでもあった。その弱みの認識が、自然に、国連をはじめとしたある種の権威への指向を強めさせたのかもしれない。しかし、そうした権威はエスペラントを取り入れるにはあまりに保守的だ。とりわけ、言語問題については、人類全体がとことん保守的なのだ。だから、そうした戦略はなかなか功を奏さなかった。

ここらへんで、姿勢を変えるべきなのかもしれない。

「押しつけがましさ」を落としていくこと。しかし、それは熱心な支持者であればあるほど難しいことだ。エヴァンジェリストのパラドクスと言えるかもしれない。だけど、それを落とすこと。

それを当たり前のように使っている人がいること、そして、それが端から見てすてきな生き方であること、そのことこそがもっとも効果的な方法になるのだろう。