KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

感動や友情を指導してはならない

 教育メディア学会での質疑について、おとといの日記で次のように書いた。

 田中博之(大阪教育大):日本とイギリスの歌舞伎をテーマにした交流学習を実施してみて、一番大切だと感じたのは、他人の心を読み解いたり、自分の心を伝えることだということだ。人間関係やほめ方、意見の出し方、それをヒューマン・リテラシーと名付けたい。情報教育の「情」は友情の情だ。

 私の質問:ちょっとカンベンして欲しい。情報教育とはそんなちゃっちいものだったのか。交流学習で友情や感動が生まれるのはいい。うまくいけばたいていは生まれるものだ。しかし、それは副産物であって、最初からそれをターゲットにするのはダメだ。

 「友情や感動は副産物であって、最初からそれをターゲットにしてはいけない」と私は言い切ったのだが、実はなぜそういえるのかということが自分でも、もうひとつクリアに説明できなかった。それで内心もやもやしていた。

 別の用事で、西林克彦「「わかる」のしくみ」(新曜社、1997)を読んでいたら、まさにこれをクリアに説明する論拠を見つけた。この本については「読んでみた」の1997年8月に取り上げているが、国語の読みについての指導方法について、よりよく読むための指導法がなされていないことと、指導してはいけないことが指導されている、という二つの問題を指摘したものである。指導してはいけないことというのは、物語のテーマや作者の言いたいことは何かということで、これらは個人の感想として意見を持つことは自由だが、それを指導という形であっても押しつけてはならないとする。

感想は文章中に根拠がないのですから、書かれていないことを指導すれば、どう釈明しようとおしつけです。その意見が、たとえ道徳的に望ましいものであったり、教師の意見であったとしても同じことです。ある作品に教師がある感想を持ち、ひとつの見方としてそれを学習者に呈示するのは、ちっとも構わないでしょう。しかし、それを学習者たちにも強制的に持たせることは許されないことだと思います。

また、各人の想いは個人的なものであって、個人がそれを表明したいときにさせるのはちっとも構わないのですが、本人がいやがっているときには、表明させるべきではないと思います。(p.171)

 著者はこの論拠をポパーの科学としての反証可能性あるいはテスト可能性というところに求める。つまり、文章中に関連する記述がなく、その読みとりに関してテスト可能性がなければ、それについては指導できないし、また指導してはならない、ということだ。

 友情や感動をテストすることはできない。それは個人の尊厳に属する事柄だ。電子メールの書き方や意見の出し方は指導できる。しかし、そこから副産物としてでてきた友情はもはや指導や評価の範疇には入らない。したがって指導者はそれを最初からターゲットにしてはいけないのである。それは指導の乱用だ。