KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

スポーツとしての日記猿人

 最近の読売新聞で読んだ記事だが、小学校の運動会の徒競走で1〜3位くらいまでは順位をつけるが、それ以下はつけなかったり、また、タイム別のグループで走らせて、あまり差がつかないようにする、というところが増えているということだ。それについていろいろなコメントがついていた。たとえば、走るのが遅いということを知ることによって、別の領域で自分を伸ばすことを考えるのだから、ちゃんと順位をつけるべきだ、など。

 もし小学校の運動会で、スポーツの原型を体験させたいならば、ランダムなグループ分けで走らせるのではなく、ちゃんとタイムを計ったり、予選〜決勝のシステムを取るべきだろう。今のままでは、スポーツではなく、とりあえず目の前の敵をやっつけるのだという「競争の原体験」を植え付けているような気がするのだ。徒競走でビリになったことによる敗北感で、かえって勉強をがんばったりするケースはもちろんあるだろうが、そうではないケースもそれ以上にあるだろうし、勉強をがんばったとしてもそれでスポーツ嫌いになってしまえばやはり副作用は大きいといわなければならない。

 ところでスポーツは、相撲やテニスなどのように相手と直接対戦するタイプと、水泳やマラソン、ボーリングなどのようにそれぞれのスコアやタイムを並べて競うタイプのものに分けられる。競輪などは、純粋にタイムではなく、同時に走っている相手との駆け引きの比重が重いので、対戦型に近い中間型といえる。

 しかし、よく考えるとこうしたスポーツは「見る側の楽しみ」のために必要以上に競争的側面を強くしている。たとえば自転車に乗って誰が一番速いかを決めるならば、1人ずつのタイムトライアルで十分なのである。もちろん競争相手がいるから、1人で走るときよりも良いタイムがでる可能性はあるけれども、逆にペースを乱されて悪いタイムになることもあるだろう。

 なぜこんなことを書いているのかというと、バドミントンをやっていてわかったのだが、対戦型スポーツというのは「競争」ではないということなのだ。逆に「協力」なのである。つまり、このコートの中に打ち返すという共通認識を相手と共有して、できるだけ球をつなげるという「協力」なのである。ミスばかりしている相手とやってもつまらない。逆に長いラリーが続くと、勝っても負けても、楽しいのである。だからバドミントンで同じレベルの技量の者同士が対戦するようになるのは自然である。できるだけいいラリーをしたいからだ。

 「協力しなければ対戦できない」というのは応用の利く逆説かもしれない。たとえばネット上の論争など。

 話は一気に跳ぶが、日記猿人Web日記を書いて得票数を競うというのは、一種の並列型スポーツだ。しかし、これも見る側の楽しみにとどめておく方がいい。得票数がいったいその日記の何を反映しているかは要因が多すぎて特定できないからだ。走っている人は自分のペースでやるのがいい。ジョギングのように。一緒に走る人が多ければ多いほど、私自身は楽しく走れる。それは間接的な協力関係だ。