KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日記書きのために生きているのではない

 毎日充実した日々を送っているのだが、しかし、それはWeb日記を書き、バドミントンをしているからだということに気がついた。そして、これは違う見方をすれば、日記書きとバドミントンだけの毎日である、ということにも気がついてしまった。

 毎日朝の9時くらいに職場に着くと、考えている時間を含めて1時間ほどかけて日記を書いている。バドミントンは昼休みの1時間、出張などがない限り毎日やっている。日記が難渋せずに書け、バドミントンで汗を流すと、それでもう一日が終わったような気になってしまう。スポーツに欠点があるとすれば、それは汗を流すとそれでOK、かなり幸せという気持ちになってしまうことだろう。日記もまた、うまく書ければかなり幸せという気持ちになる。しかも充実した気持ちが持続する。

 ある時、今まで毎日の生活の背景になっていた日記や運動が主役になってしまう。図地反転である。ルビンの壺の絵のように、いままで壺を見ていたのに、突然背景の向き合った人の顔が見えてくる。そのとき壺を見ようと思っても見えない。日記書きが突然生活の主役になってしまう。書くということは、毎日の生活のひとつの投影の形にすぎないのにね。

 ずいぶん前に、野田(俊作)さんがこんなことを言っていたのを思い出す。「趣味に生きるのはいいけど、釣りバカ日誌になってしまうから注意が必要だ」と。釣りが人生の主役になってしまうことに注意しなければならない。釣りが生涯の目的であるという生き方を否定するものではないけれども、それは自分がしなければならないことなのかを自問する目を持ちたい。

 何のために生きているのか。私の場合、もちろん日記を書くためではない。