KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

Web日記書きは表現力を鍛えるか

 「自己表現力を高めるには」という文脈で、じぶん更新日記(7/13)にこう書かれていた。

ちはるさん(topはこちら)のところなど、いくつかの大学では、学生にWeb日記書きを推奨しているゼミがあるようだが、自己表現力を鍛えるという点ではどの程度の成果をあげておられるのだろうか。

 確かに私のゼミではWeb日記を書くことを推奨している。推奨しているどころか、義務づけていて、Web日記を書くことはゼミでの評価の一定の割合を占めている(具体的には100点中20点をWeb日記書きに割り当てている)。これは、学生が私のゼミを選ぶときに条件として明言している。「向後ゼミではWeb日記を書くことを義務づけています」と。変なゼミ。

 実際のゼミ生の日記は、研究室のトップページから読むことができる。時間があれば読んでやってください。太田さん、中井さん、坂元くんあたりの日記が一日分の分量としてはまとまっています。私の好みとしては段落文体が好きなのだけれども、特に日記の書き方についてはあれこれ口出しはしていない。でも、できるだけ毎日書くように要請はしている。

 自己表現力とWeb日記書きとの関連についていえば、あまりないのではないかという感触を持っている。自分自身を振り返ってみても、2年前と今とではあまり進歩や変化が見られない。去年の「言語表現」授業では、100日間続けて日記を書くということを行った。しかし、そこでまず見られた特徴は、日記を書き続けてもそれぞれが持つスタイルは変わりにくいということだった。

 文章のスタイルは変わらないけれども、しかし、「文章を書く」ということに対する心理的なハードルは確実に低くなる。そして、続けて書いていれば、表現力も少しずつついてくる。劇的には変わらないかもしれないが、書いていて文章がますますへたくそになるということは、ない。その意味で、ある程度以上の長さの文章を続けて書くことがポイントかなと考えている。

 「書く」ということはつまり「ある程度以上の分量を書く」ということだ。ぽつりと置かれた文は、読み手の想像力を刺激するかもしれないし、日記ではそこが楽しいのかもしれないが、自分の気持ちをけっして正確には伝えない。それは読み手に依存する。もし、書いていて、そこに何かを正確に記述しようという努力がなければ、書くことの意味はあまりないのではないか。何かを正確に記述しようとすれば、必然的に文章は長くなるのだ。

 長谷川さんは、次のようにも言っている。

自分で日記を書くということは、その内容にもよるけれども、「論理の構築」や「自己表現へむけての思考」に結びつく可能性もある。もっとも、よほど理屈好きな人間でない限りは、そんなことばかり意識してWeb日記を長続きさせることは難しいと思うけれども.....

 これこそがWeb日記を続けて書くことの意味かもしれない。日常雑記が延々と続く中から、突如、自己内省の世界に突入することがある。それはめったにあることではない。そして、そもそも書き続けなければ出てこないものだ。私が「日記はなるべく毎日書いてほしい」というのは、このためだ。日記を毎日書いていると、何の気まぐれか、壮大な論理の構築を始めてしまうことがあるのだ。

 日常生活に埋もれたままでは、考えたことのないことを考え始める。これこそが日記を書くことの意味ではないかと思う。