KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

指示待ち世代と未来日記

 きのうのブロードキャスターで取り上げられた未来日記の話題の続き。

 司会の福留さんは、未来日記は「指示待ち世代」と呼ばれている若者に合ったものなので、ブームになったとコメントした。未来日記は、いわば行動指示書のようなものだから。指示がないと動けない若者にはぴったりだ、と。

 若い世代に対して「○○世代」とか「新人類」とか名前を付けるのは昔ながらのことだ。しかし、これはよく考えると「フリーサイズ効果」の最たるものかもしれない。つまり、「今の若者って、指示待ち世代だよね」と言おうが、「今の若者は他人の言うことを聞かない、指示無視世代だよ」と言おうが、少しは当たっている、ということ。両者の意見は正反対だけれども、「若者」にはいろいろな人がいるので、どちらの意見も少しは当たっている。そこにもってきて、「今の若者は指示待ち世代だ」と語気強く言えば、「ははー、なるほど」と思ってしまう。

 昔にも、指示待ち組はいただろうし、それが今になって増えているのかというのは、データがない。たとえデータがあったとしても、社会が変わっているのに、そのデータを比較するのにどのような意味があるのかは難しいところだ。つまり、「指示」そのものの意味づけは、その社会によって違ってくるから。

 そもそも、指示待ち世代というものがあるとしたら、それは社会にとってありがたいものではないのか。「人々がやってほしいことをきちんと伝えられて、それを伝えられた人がきちんと果たすならばどれほどすばらしい社会になることか」という趣旨のことを『うまくやるための強化の原理』という本(→感想文)が言っている。問題は、指示を受け取っても、それをきちんと果たしてくれない場合だ。これでは指示を出す甲斐がない。まあ、それは指示の出し方が悪いのだという話もあるのだけれど。

 よく考えてみると、未来日記はそれぞれの人が持っているものなのだよなあ。たとえば僕にも未来日記というのは、ちゃんとあってね。それは番組のようにシナリオ本のような形ではないのだけれど、心、というか頭の中に、ちゃんとある。「明日は何をする」ということから始まって、「今週は何をする」、「今月は何をする」、「この夏休みは何をする」、「今年中には何をする」、「あと3年以内には何をする」、「あと10年以内には何をする」というところくらいまでは、何かしらイメージがあるものだ。

 そういうイメージはあるけれども、たいていは実現できない。とりわけ「あと3年以内には何をする」というようなやつは、何年たっても「あと3年以内には…」だったりする。ポイントは、3年以内になすべき行動を、具体的で苦労の少ない小さな行動に分解、分割するというところだろう。ああ、そうか、未来日記のすごいところは、具体的な行動を誤解なく指示しているというところだな。よいシナリオ、つまりよい行動指示書ができていれば、あとはそれを実行していくだけで、なにかしらのことができてしまうということだ。

 ということは結局、よいシナリオを作ることが大切だ、ということだ。あまりに当たり前の結論か。

 来年はきっと「未来日記」と称したスケジュール帳が売り出されることだろう。スケジュール帳というのは、一種のシナリオなのだなあ。