KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

未来日記の面白さ

 変温動物の悲哀(旧きざし)の8/20で、未来日記の話題がシンクロしている。そこからの引用:

あの企画の面白さは、当事者の頭の中にプランがない状態で行為が積み重ねられていき、行為が積み重ねられていく中でそれぞれの行為を引き起こす意図が事後的に構築・知覚され(←因果関係が変? 気にしない気にしない)、その意図を産み出す感情が事後的に構築・知覚される(←因果関係が変? 気にしない気にしない)というところにあるのではないかしら。

それはシナリオを全部最初に読んでそこに指示されている行為を一つ一つ実行に移していくというプラン先行型の行動とは多分違う。「演じる」とか「なりきる」とか「マニュアル世代の何ちゃら」とか「計画を細かく立てて行動する」とかとは性格がずいぶん違う、ような気がする。

 なるほど、なるほど。そうするの僕が昨日書いた、「未来日記は誰の頭の中にもある」というのは、ちょっと違いましたね。未来日記の場合は、あくまでも「全部をやってみなければ、全体像がわからない」というところにポイントがある。

 前段の「行為の後で、それを引き起こす意図が事後的に構築され、その意図を起こす感情が事後的に構築される」という指摘は、僕が8/19に書いた「まず行動を先にすると、そのあとから感情や思考が追いついてくる、という普通とは逆のことを体験する企画といってもいいかもしれない」ということにも合致しているような気がする。「行為→意図→感情」という因果連鎖はあまり変だとは思わない。ふだんよくやっていることではないかと。ということは、あまり考えていないで行動しているのが、日常の大部分を占めているということなのだが。

 未来日記は大きなプランではないということ。終わってみれば大きなプラン、つまり物語になっているのだけれども、それは先読みできない。マクロなプランと、ミクロなプランがあるってことか。ふつうはマクロプランとミクロプランがお互いを制御しあっているんだけれども、ミクロプランだけが提示されたときに、人はどう動くか、そして全体像がわかったときにどう感じるかということなのかなあ。

 人はそもそもプランなんかしていないんだ、という考え方もあって、それはそれで魅力的なところもある。たとえば、恋人といっしょにデートをしていて、「あの場所のあのシチュエーションでキス」というようなプランを抱いていても、そうなった試しがない。そうではなくて、ある適当な場所とシチュエーションが成立すると自然にキスができるわけ。つまり、プランがあるとしたら、それは頭の中ではなくて、外にある。まあでも、キスしたいという欲求は中にあるわけだけれどね(でも、彼女のくちびるがそれをアフォードしたという考えもあるのでややこしい)。

 ああ、妄想じみてきた。

 しかし、ここまで未来日記の話題を引きずったら、ちゃんとその番組をみなくてはいけませんね。しかし、私は毎週きまった番組を続けて見るというこらえ性がないので、ほんのさわりや紹介だけをみて、妄想を膨らませて、ああだこうだと考えているフシがあります。なぜかというと、あまりその番組にのめり込んでしまうと(のめりやすい私)、一歩引いて見ることができなくなると考えているからです。一歩引いて見なくても、別にいいんですけどね。

 というわけで、ちゃんと番組を見ている人から、メールをいただいたので、その一部をご紹介(北風小僧の脂肪肝太郎さん、ありがとうございました):

おそらくこのコーナーがうけているのは、指示が実際にはきわめて「理不尽」なもので、その理不尽な指示を遂行すると、次の理不尽な指示がくるというRPGの要素、電波少年の各種コーナーの特徴を備えている点であろうと思います。電波少年ではお笑い芸人を使っているところを、あの番組では(一応)素人をいじっているというところが目新しい(というか今風というか)ところのように見えます。

たとえば、男はコンサート開催という自分の目標を目指し、女はその男の夢を実現させるために努力する、というのが典型的なパターンで、視聴者層をうまく掴んでいるなと思いました。

多くの視聴者にとって、まさに箱庭の中の嵐を、あたかも自分と同じような(一見)素人が体験しているのを疑似体験すること、それが未来日記の本質のように思います。