KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ゼミを録音する副作用

今年の大学院の授業は、受講生が1人だけだ。これをチャンスと思って、教育工学の基本についての話を対話形式でしている。この対話をMDに録音している。録音しているのは、将来、教育工学の本を書くときにひょっとしたら役に立つのではないかという、期待があるからだ。まあ、淡い期待だが。

口述筆記で原稿を書く作家がいることは知っている。しかし、自分はそれはできないようだ。タイプする方がよほどストレスがない。とはいえ、聴いてくれる人が、ひとりか二人いると、とたんに話しやすくなる。これは口述筆記とはまったく違う。うなずいてくれたり、「そうですね」などと合いの手を入れてくれるだけで、話が続けられる。相手の顔を見ていれば、自分の話を聞いて、納得しているのか、あるいはそうではないのかは、よくわかるので、それに従って話の内容を展開したり、例を出していけばいいのだ。

しかも、思わぬ副作用がある。録音されていると思うと、ひととおり、ちゃんとしたことをしゃべろうという意識が働く。もちろん私の話はいつもの通り、脱線ばかりなのだが、それでも、最終的になんとかまとめようという意識がある。これがひょっとしたら実のある話をしたかも、というようなことになる。それじゃ、録音していないときは、与太話ばかりしているのかといわれると、返事のしようがないのだけれども。そのとおりだから。

今日で3回目だった。不手際で1回目の録音が消えてしまった。しかし、10回分くらいたまったら、テープ起こしをして、自家製の教育工学テキストを作ってみようかと考えている。