KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教育工学研究会@名古屋大学:実践研究の記述

名古屋に来ている。

名古屋大学教育学部での教育工学会の研究会に参加する。研究会にしてはかなりたくさんの人が聞きに来ていた(30人超?)。あとで聞くところによると、最近では一番の盛況だったそうだ。研究会は2ヶ月に1回(つまり年6回)全国を回っている。場合によっては、参加者数がほぼ発表者数に等しいということもある。私自身も久しぶりの研究会への参加だった。祝盛会。

ひとつ問題として浮かび上がってきたのは、教育実践研究をどのようにして論文化するかということ。とりわけ教育工学をやっている人はTeacher as researcher(研究者としての教師)が多く、そのような人たちは学会の年次大会でたくさんの研究発表をするし、その全体の研究にしめる割合も大きい。しかし、論文誌に採録される論文にしめる実践研究の割合は、それに比較して非常に少ない。これはアンバランスだ。少なくとも学会発表に占める割合くらいの論文が出てもいいはずなのだ。

その原因のひとつは、伝統的に実証研究が重視されてきたということがある。しかし、実践研究は、何かを実証するということを第1目的にはせずに、自分の実践をよりよくするということを目的にしている場合が多い。そのときに、論文化するためにむりやり実証のための記述フレームを使うとうまくいかないのである。実践のための記述フレームの開発とその承認が必要になってきている。

アクションリサーチの本を読むと、そこでは、外的妥当性(知見の一般化可能性)を重視しないということを明言している。そうであるならば、その論文を読者に価値あるものとするために、一般化可能性に代わるような「セールスポイント」をアピールしなくてはならないだろう(社会構成主義的な論の運びだ)。つまり、ただ「よい実践であった」と書く以上の、説得力を高める努力をしなくてはならない。たとえば、仮説を支持するような観察記述と並行して、それを支持しないようなものをできるだけ記述するような努力。また、「授業がよくなった」として、それにはいったいどのような原因が働いていたのか、ということを可能な限りリストアップし、そのひとつひとつについて検討すること。

事例研究については、一般化可能性を重視しなくていい、ということは了解できる。それは科学者として謙虚な姿勢である。たとえばフランスのある心理学者の一派は考察をあえて書かない(つまりデータだけを書く)。なぜならばその考察は100年後に書かれるべきだと考えているからだ(ちょっと極端すぎるきらいはあるが、その哲学はわかる)。また、事例研究を読む読者は、それが1事例の記述と考察であることを認識した上で、自動的にそこから「役立ちそうな知見」を見いだそうとする。そうするなといってもそうするだろう。したがって、いってしまえば、事例研究は事例の記述だけで十分なのである。その次の一歩があるとすれば、そうした記述をいくつも読み込んで大きな理論を作るということになる。