KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

この投票は科学的なものでない

MacWIREの2002.4.4にこんな記事が載っていた。

BusinessWeek Onlineが実施した投票によれば,調査対象のおよそ半数がWindowsベースのPCからMacintoshへの移行を考えているという。この投票結果は同誌の“PC to Apple?”という記事のなかに掲載されている。

この投票に答えた1,800人近くのうち800人がWindows PCからMacに乗り換えることを考えていると表明しており,675人がMacを持っていないと答えた。同誌ではこの投票は科学的なものでないと強調している。任意のものであり,3月の最終週に行われたものだ。

マックユーザの私であれば、この記事を「なるほどね♪やっぱりね♪」などとちょっとうれしく思いながら読んで、この日記にも紹介しようと思うところだが、別のところがおもしろくて、これを引用した。

どこがおもしろいかというと、「同誌ではこの投票は科学的なものでないと強調している」というところだ。「科学的でない」と強調しつつ、そのデータを出すことの意味とその効果は何なのかということを考えさせるのだ。

ここで科学的でないといっているのは、この調査がランダムサンプリングされたものではないことや、回答者の属性がコントロールされていないことを意味していて、このデータに(たとえばアメリカのパソコンユーザに対する)代表性がないことを示唆しているのだろう。とはいえ、1800人が実際に回答を寄せ、このような結果になったことは事実だ。それを「科学的でないけれど」と強調して記事にする。その記事を読めば、何らかのイメージを読者に与えることが可能だ。

もしこの記事を「科学的でないけれど」と書いて、論文誌に投稿したらリジェクトされるだろう(建前上、当たり前だ)。でも、そうは書かなくても、そのようなデータを出して論文を組み立てるということはけっこうたくさんあるような気がするのだ。

自ら「科学的でない」といいつつ、構成された記事。一方で、科学的であることを暗黙の前提として書かれた論文。その2種類の文章は、世界が違うようでいて、意外と近いものであるかもしれない。「科学的」ということの意味が問い直されている時期なのだろう。

「これはあくまでも私個人の体験ですけどね……」という語り口は、科学的でないからこそ多くの人の注意をひく。「個人的な体験」ということを強調するからこそ、聞き手はそこから何か普遍的なものを引き出そうとしてしまう。それはたいてい成功する。