KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ガーゲン『あなたへの社会構成主義』

あなたへの社会構成主義

あなたへの社会構成主義

沖縄で、「作文教育を社会構成主義の立場から研究している」という学生さんと話をしたのだが、この本を知っていればまっさきにお勧めしただろうという、その本。

Invitationというタイトルどおり、どのようにして社会構成主義という考え方に至ったかを、哲学や科学論、心理療法、教育、メディア論といった広いスコープから、ガーゲン先生がやさしく解説してくれる。自省と対話にこそ、キーがあると主張するガーゲン先生は、そのとおり、各章の終わりに「本章をふり返って」という一節を設けて、読者との対話を試みている。

言語のゲームメタファーと、それに伴う新しい「意味」観は、イデオロギー批判に次のような改善点をももたらします。つまり、私たちは、人々の言葉の裏に潜む動機や、隠れたイデオロギー的な偏見にとらわれなくてもすむようになるのです。他者に悪意があるのではないかと疑う必要はありません。まして、言葉の裏にほんとうの動機が隠されている---これはまだ十分に解決されていない難題なのですが---と考える必要もありません。私たちの注意は、さまざまな考え方によって、どの生活形式が好まれ、どの生活形式が脅かされるのかという点に向けられます。

私は学部学生の頃、「科学的な」心理学のトレーニング---実証的方法論、厳密な測定、統計的分析を用いることによって、心の機能に関する真実に接近できるという期待にもとづいた心理学におけるトレーニング---を受けました。大学院のゼミや研究実践では、「いかに知識を確立するか」ということが最も重視されていました。私は一生懸命学び、実験室という限られた場の中から、学術雑誌に受け入れられるような、明白で注目せざるをえない「事実」を作り出すテクニックを修得しました。……私はもはや、このような研究をすることはないでしょう。だからといって、そうした研究が完全になくなってしまうことを望んでいるわけではありません。もちろん、「真理」や「客観性」を装うことは絶対に避けるべきだと思います。また、伝統的な科学者が最終的な結論を手にしようとするのに対して、私は対話の大切さをより強調します。しかし、何よりも大事だと思うのは、「真理を確立する」ことを目的としない研究のもつ価値や可能性について、もっと議論していくことです。

他者をコントロールしようとする対話---例えば、教室における生徒、医療場面での患者、セラピーにおけるクライアントに対する対話---に関する研究もすでに始まっています。

実証研究では、一般に、研究者と研究の対象となる人々とを、できるだけ引き離しておこうとします。……こうした態度に対する一つの代替案は、研究の対象である人々と共同で研究を行うというものです。……こうした研究の一つの例としては、中年女性と心理学者が共同で、更年期や、それに関連することがらが、慣習によっていかに構成されているかを議論したものがあります。あるいは、セラピストがクライアントと協力して、彼らに特有の問題とセラピーの効果の有無についての専門的な論文を書き上げたという例もあります。

彼を「病気」とみなすことによって、「治療」という実践が登場するのであって、もし、彼が病気と定義されなければ、治療以外の実践が動き始めるはずです。このような医学モデルは、セラピーやカウンセリングの大部分に浸透しています。……社会構成主義は、医学モデルに立つこのようなセラピーへのアプローチに対して、真正面から挑戦します。なぜ、クライアントは、「問題を抱えている」とみなされなければならないのでしょうか。他にもっとよい道はないのでしょうか。また、それぞれのセラピストは、どういう根拠にもとづいて、「この理解のしかたの方が優れている」などと主張するのでしょうか。

教育研究者ブラッフェは、教室における教師の「モノローグ」という権威的な声をできる限り小さくし、「唯一の正しい答え」をあまり重視しない教育実践を、積極的に行っています。例えば、彼の英文学の授業では「コンセンサス・グループ」が取り入れられています。この授業では、さまざまなテキストからの質問---生徒に、その分野の定説に挑戦させるような質問---に対して、自分なりのやり方で答えなさいという課題が、グループごとに与えられます。ただし、その際、グループの中で合意に達しなければなりません。各グループは、考えをまとめていく時に、時には極端な反対意見にどう対処するかを考えていかなければならないのです。ブラッフェがいうように、「グループ全体が『一応納得できる』ような点に達しなければならないため、生徒は、学問において最も高度でやっかいな問題の中に放り込まれる」ことになるのです。

社会構成主義の対話は、私の日々の教育実践にも変化をもたらしました。例えば、私が大学で教えて最もわくわくするのは、専門課程の学生に、典型的な「学期末レポート」ではなく、自分なりの表現方法を用いるようにという課題を与える時です。その結果、豊富なビデオプロジェクト、絵画やコラージュ、録音された音楽、ウェブサイト、劇の上演、詩、ダンスなどが生み出されたからです。もはや、たった一つの規準で、学生を評価することなどできないのです。

社会構成主義は、明確な進歩がみられないという理由であまり評価されない学問分野や実践に関する正しい理解を、私たちにもたらしてくれます。例えば、セラピーやヴィジュアル・アートは、累積的なものではないとされ、「自然」科学の従属的な役割しか与えられないことがよくあります。セラピーや芸術などの領域では、スタイルや流行の移り変わりがあるだけで、それは上昇(垂直方向)ではなく、同じ地平での異動(水平方向)にすぎないというわけです。しかし、垂直方向に---科学的な理解の進歩---進んでいかなければならないという主張には、何の根拠もありません。アリストテレスの物理学からニュートン力学へ、そして原子物理学へという流れによって、私たちは、よりいっそう「真実」に接近したのではありません。ただ、ある意味の領域から別の領域へと移動しただけです。……セラピーの流派や芸術のスタイルが常に変化するのは、決して否定的に捉えられるようなことではないはずです。それぞれのセラピーや芸術は、文化に、ある選択肢---生活形式、関係を動かす可能性---をもたらしてくれます。そして、この選択肢は、多くの人々にとって、はかりしれない力を与えてくれるものなのです。

ボリュームのある本だが、翻訳は初めから日本語で書かれていたのではないかと思うほど読みやすい。