KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教育学部の再編と行く末

 新潟市まで日帰り出張してきた。気分は「心地よい敗北感」といったところ。それがどういう意味かについては、日を改めて書こう。車で持っていった『自己表現力の教室』は16冊も売れた。受講生は19人だったのでほとんどの人が買ったくれたのだ。本当にうれしい。

 さて、大学関係のメーリングリストで、6/21の読売新聞に次のような記事があることを知った。

 少子化による教員採用の激減を受け、文部省は二十一日までに、全国に四十八ある国立の教員養成大学、学部の再編に着手する方針を固めた。(中略)

 近年広がっている、教育学部にありながら教員免許の取得を目的としないコース(ゼロ免課程)についても扱いを再検討。大学によってはゼロ免 課程に一本化し、広く教養を学ぶ学部などに全面転換することも促す方向だ。

 おお! いよいよ教育学部改造の第2段階が来たか。私のところではすでに2-3回改造をしている。しかし、その実質は、教員養成課程とゼロ免課程の数合わせに過ぎなかった。この新聞記事によれば、次の改造はもっと根本的なものになるようだ。

 教員養成課程を他の大学に統合して、ゼロ免一本にする、か。そうしたら、その学部は何学部になるのだろうか。広く教養を学ぶから「教養学部」? それはそれでなんだかカッチョイイので許すけど。

 それにしても、教員養成課程の3割ほどしか実際に教員にはならないので、規模を縮小していくというのは、実にしみったれた話だ。たくさんの教員有資格者を輩出して、そのなかで、やる気のある優秀なものが教員になるというシステムのほうがいいような気がする。

 それに、学校の教員だけが、「教えるという仕事」なのではない。パソコンのインストラクターだって、スポーツのコーチだって、マニュアル・ライターだって、ピアノの先生だって、企業内教育スタッフだって、教育ソフトの制作者だって、みんな教える仕事なのだ。

 これから生涯教育の時代になることは間違いがない。その時代は、みんなが生涯を通じて常に何かを学んでいくということであり、同時にみんなが何か自分の得意なものをほかの人に教えていくという時代なのだ。「教える」という行動をもっと広く定義し直すことによって、「教育学部」の新しいあり方が見えてくるのではないか(まあ、存続すればの話だけど)。