KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

自己実現という支配的信仰

野田俊作講話「自己と他者」からのメモ。

デカルト「我思うゆえに我あり」の考え方は、自己の存在を周りと関わりなく認めている。それに対してブーバーは、自分は他者との関係によって決まると考えた。「我・汝」関係と「我・それ」関係。我・それ関係は、マルクスでは「疎外」ということ、つまり他者を自分の幸福のための道具として使うこと。心理学では、フロイトフロイトの弟子エリクソンが、自我同一性という考え方をしている。これは他者との関係で自己が決まるという考え方と対立する。

ヒンズー教では真の自己としてアートマンを考える。これは普段は隠されていて、修行によって煩悩を落とすことで現れてくると考えられている。人間性心理学のマズローもこの考え方に近い。一方、仏教では無我、つまり自己はないと考える。自分は世界からのカルマを引きずっていて、いずれ消えてなくなるんだけど、その存在は世界に何らかの影響を与えている。因縁という考え方。

ポスト構造主義では人間は蕩尽するものとして考えられている。デカルト流の、私とそれ以外の世界があって、私は世界を征服していくという考え方では、人間の欲望に限りがない。とりわけ、自由主義、資本主義、民主主義が組み合わさった現代では、蕩尽するという方向性で決まる。ベンサムの「最大多数の最大幸福」は当時としては妥当だったが、今では、みんなの幸福を追求するとみんなが不幸になるという状況になっている。

これから逃れるためには、私と世界の対立関係ではなく、私は世界の一部なんだという(仏教的)考え方が必要。これを「絶対的全体論」と名づける(「相対的全体論」は、アドラー心理学の基本前提の「全体論」つまり、個人は全体として存在していて、内的葛藤なんかはないという考え方のこと)。それを日常的に感じるためには、生活を神聖なものにしていくことが必要だ。

「本当の自分はどこかにある。自己実現しましょう」という考え方は、アートマンからマズローまで、今では広く行き渡っている。特に自己実現という考え方は、会社の人事関係の人たちと就職活動期にある学生にとっては、ある種支配的な信仰になっているのではないでしょうか。でもそうじゃない考え方(自己はない)という考え方もありますよということ。

自己実現信仰の良くない点は、「自己実現したい自分、でもできない未熟な私、そして自己実現の障害となる悪い環境=世界」という図式になりやすいということかな。