KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

内田樹『先生はえらい』

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

あなたが「あ、この人には、そういうところがあるんだ」と思い、「そういうところ」に気がついているのは私ひとりだという確信があるから、どきどきしちゃうわけですね。

みなさんはもしかすると、「学ぶ」ということを、先生が有用な知識や技術を与えてくれる対価として、生徒がしかるべき対価を払うことで成立する「取引」のようなものだと考えてやしませんか?/自動販売機みたいに、コインを入れると「資格」や「免状」が出てくるものだと。

わかりやすい教育目標を設定し、有用な技術を学習したにもかかわらず、そして、その技術はあなたのその後の人生にいろいろな便益をもたらすものであるにもかかわらず、教習所の先生はあなたからの久しい敬意を得ることができなかった。/理不尽ですね。

不思議な話ですけれど、愛の告白も、恩師への感謝のことばも、どちらも「あなたの真価は(私以外の)誰にも認められないだろう」という「世間」からの否定的評価を前提にしているのです。/でも、その前提がなければ、じつは恋愛も師弟関係も始まらないのです。「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。/だから私は生きなければならない。

あなたが話したことは「あなたがあらかじめ話そうと用意したこと」でも、「聴き手があらかじめ聴きたいと思ったこと」でもなく、あなたが「この人はこんな話を聴きたがっているのではないかと思ったこと」によって創作された話なんです。

私たちに深い達成感をもたらす対話というのは「言いたいこと」や「聴きたいこと」が先にあって、それがことばになって二人の間を行き来したというものではありません。そうではなく、ことばが行き交った後になって、はじめて「言いたかったこと」と「聴きたかったこと」を二人が知った。そういう体験なんです。

コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。

その「言いよどみ」や「口ごもり」がそのまま表現された文章は、「いい文章」であるかどうかは別として、少なくとも「扉が開いた」文章である可能性は高いと思います。/錯綜しているけれど、どこか自然な律動がある。息せき切って走ってきた人の息づかいが、乱れているけれども、それでも生命の必然にかなっているのと同じです。/そういう文章は論理的ではないけれど、どこかにたしかな条理が通っている。

私が言いたいのは、文章を先へと進める力は、ことばが思いを満たさないという事実だ、ということです。

その人がいったい何を知っているのか私たちには想像が及ばない先生、それが「謎の先生」です。

人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分知っている。/このラカンの断言が意味しているのは、「知る」ということがコンテンツの次元の問題ではなく、コミュニケーションの仕方の次元の問題であるということです。

自動車教習所の先生はあまり尊敬されない。確かに私の体験でも、尊敬に値する先生はいなかった。それでも、教え方のうまい先生と、完璧に下手くそな先生は厳然として区別されたな。インストラクショナルデザインはそこを焦点化している。自らの師匠を見つけることとは、たぶん話の次元がまったく違うことなんだ。

オンラインの議論だと、なかなかコミュニケーションの意図が通じなくていらいらしたりする。「理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」と願うより先に、「とりあえず誤解でもいいから相手を理解した気になりたい」と思うこともありますね。そう考えると、「本当に自分は相手を理解したいのか」ということを疑ってみる方がいいのかもしれない。そうすると、「理解したくないのにコミュニケーション行動を取るのはなぜか」という問題も持ち上がってくるので、わけわからなくなるなあ。ここらへん、オンラインと対面コミュニケーションの分かれ目なのかもしれない。「オンラインコミュニケーションでは相手を理解したくないベクトルがデフォルトである」とかいう仮説。

この本、最初と最後は、師弟の話なんだけれども、中間の大部分はコミュニケーションのポストモダン的な捉え直しを、身近にわかりやすく解説されているような気になる。それを中高生向けに書いてしまう。なんか、すごい。