- 作者: 宇佐美寛
- 出版社/メーカー: 東信堂
- 発売日: 2004/07
- メディア: 単行本
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『私語研究序説』という本が有る。著者の御苦労はわかる。しかし、何とアホらしい研究か! 私語は研究などせずに、無くせばいい。無くすのは簡単だ。
道路は、土がむき出しのままなら、ぬかるむ。土ぼこりも飛ぶ。ぬかるみの研究や下駄の歯を高くする研究などアホらしい。道を舗装すれば、ぬかるみも土ぼこりも、すぐになくなる。
私の授業には私語は無い。私語についてのお説教をしたことも無い。
簡単なことである。講義をしなければいい。「授業イコール講義」と思いこんでいる頭の堅さが大学教育界では一般的である。いわゆる「バカの一つ覚え」である。講義は私語菌が繁殖するのにまことに適した培養基である。
「バカの一つ覚え」だから、『私語研究序説』などという本の奇怪さ、アホらしさに気づかないのである。
三部作の2冊目。まえがきで、「この二冊とも読むべきである」と明言されている。
この本では、前作から引用をして自分の授業の意図と実践を紹介しながら、いくつかのFD本の批判を行っている(田中一『さよなら古い講義』(http://d.hatena.ne.jp/kogo/19990301)もばっさり。しかし、好意的)。前作からの引用はかなり長い(数行では終わらない)し、何回も出てくるので、デジャブを起こしそうになるが、次の引用のように講義をせずに自分の著書を読ませるという意図であれば、それでいいのかもしれない。(「ボク」は目下の者に対して使うことばだ。「私」といいなさい。---というのはそのために私の頭にしみこんだ)そう思うと、この本を読んでいることが、まるで宇佐美先生の講義を受けているように感じられてくるのである。そういうふうに書かれている。この文章のスタイルは独特だ。
授業は、一定の時間、一定の空間に、学生が集団で存在するという条件にあった営みであるべきである。
講義で、つまり口頭で言って、知らせたいことならば、予めそれを書いた本(資料)を読ませればいい。私は、四十年ほどの大学教師としての授業で、ほとんどの場合、自分の著書を読ませていた。
本を読むのならば、ゆっくり自分のペースで考えながら読める。くり返し読める。書き込みをしながら読める。それなのに、なぜ、講義という劣悪な方法に頼るのか。
また、私は何の科目でも、ほぼ毎時間、作文を提出させる。教科書のある部分についての意見・疑問を書く文章である。
授業では、私はこの作文に対応し答える。また、復唱を課し、学生と問答する。これは、授業でなければできない営みである。