KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

【ブログ】「遊ぼう!」とは何か:共同体感覚を感じる機会としての合宿

2022年9月30日(金)

こんな記事を読みました。

> 大学のゼミ選びの新常識? 最近の学生が「飲み会、合宿があるゼミは嫌」と語るワケ
「なんでゼミに入るのが面倒かというと、高校のような固定的なクラス制度が強要されるのが嫌なんです。2年間も密な人間関係を築かないといけない。飲み会に行かないと友達に置いていかれそうだし、合宿で他県に行くには5万円以上はかかりますよね。みんなが参加しているのに、自分だけ行かないというのも悪目立ちしそうで嫌なんです……」

https://www.moneypost.jp/951881

ああ、そうなのね。こうした傾向が徐々に広まっているのか、コロナ禍でそれが急拡大しているのかわかりません。しかし「飲み会、合宿があるゼミは嫌」というのは私にとってなかなか衝撃的です。

コンパをやるにも、ゼミ合宿をやるにも、準備もありますし、けっこう気を使って企画しなければなりません。ですので、「飲み会、合宿があるゼミは嫌」という学生が多くなれば、いっさいやらないという選択肢もありかなと思います。ええと……それでも「ゼミ」と呼べるならいいのですけど……

「密な人間関係」を築くことが義務として課せられたならこれはイヤでしょうね。人間関係を作るスキルが大切だということはよくいわれています。しかし、それは誰とでも仲良くならなくてはいけないということではないと思うのです。

### 「遊ぼう!」というアドレリアンの合宿

話はかわって、先日、鳥取県大山町で開かれた「遊ぼう!」というアドレリアン(アドラー心理学をやっている人)の合宿に参加してきました。

アドラー心理学の中心的なアイデアは3つあります。それは、劣等感と補償、ライフスタイル、そして共同体感覚です。特に、共同体感覚はアドラーが最後に行き着いた結論ともいうべき概念です。

では、共同体感覚とは具体的にはどのような感覚なのでしょうか。それはその実体験がなければ理解できないと思います。「あ、これが共同体感覚なのかもしれない」という体験です。

私はアドラー心理学を講じていながら、具体的に「これこそが共同体感覚だ」という体験がありませんでした。ですので、それをある種の抽象的概念として扱っていました。これは間違いではなく、先駆者たちも説明するときはそのように説明しているケースが多くあります。つまるところ、共同体感覚を感じる体験はあまりにも個人的であるために、説明のしようがないということになると思います。

「遊ぼう!」合宿では、この共同体感覚を感じるような体験をしました。そのことを私は次のように書きました。

### 「自我が解ける感覚」

鳥取県大山町のなかやま温泉友好館にて「遊ぼう!」合宿に来ています。鳥取のアドレリアンが毎年開いている企画です。20数人の規模で、お互いが同じ方向を向いている人たちが集まっています。 

こういう場所にいると、変な言い方ですけど、「自我が溶けていく」ような感覚になります。それぞれの参加者は数名で集まったり、話をしていて、自分も誰かと話しています。自分は確かにここにいるにもかかわらず、別の場所のあそこにもいる感覚があるのです。 

つまり、原始的な共同体、あるいは大家族の中のメンバーになったような感覚なのですね。日常生活ではこのような状況はめったに起こらないです。このような合宿や、同じ目的を共有したチームで限定的に起こる感覚です。 

昔、エスペラントの合宿に参加したことがよくありました。そのときに感じた感覚にも似ています。目的を共有したメンバーが集まるとこういうことが起こるのかなと思います。 

これを「自我が溶ける感覚」と名前をつけたいです。自分と世界はいつでも対峙しているわけですが、じつは自分の周りにはこうした共同体の層があるのです。その存在が自分を勇気づけてくれます。その共同体の存在をときどき実感する必要があるように思います。そうでないと、自分はひとりで孤独に中に沈んでしまうのです。

### 「仲間とできる」

「遊ぼう!」合宿のスローガンとして「仲間とできる」というものがあります。これは共同体感覚を具体的に言い表したものだと思います。「何かができる = Capable = Competency」も「仲間とつながる = Connect = Relatedness」も共同体感覚に欠かせない要素です。しかし、それぞれが単独ではなく、「つながった仲間の中で何かができる自分」という認識がポイントなのです。

その結果として 、自分の存在が仲間の中で意味を持っていると感じられます。そのとき自分という個の感覚がその共同体の中で拡散していくのです。それを「自我が溶ける感覚」と名づけました。それは、自分の居場所がここにあり、自然な感じでいられる、そして、とりたてて自分を意識することがない状態になります。

その状態は、共同体感覚を感じられていることの証拠としていいのではないでしょうか。合宿をやることの意味はそこにあるような気がしています。