KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

【高知4日目】四国地方会で講演とシンポジウム

2024年6月2日(日)

日本アドラー心理学会第24回四国地方会が自由民権会館で開かれた。今回の高知遠征はこれがメインの仕事。

午前中に2時間の講演「劣等感とのつきあい方」をした。参加者は20人。途中10分の話し合いワークを入れた。すでに作ってあったマップを提示しながら話したのだけど、講演会でこれは固いかもしれないと感じた。学術発表ではないので、もっと柔らかく自由に話したほうがいいのかもしれない。マップも使わずに、せいぜいホワイトボードにキーワードを書くくらいにして。

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午後は2時間半で梅ちゃんとのコラボで「課題の分離をめぐって」というシンポジウム。参加者は16人。こちらは日本アドラー心理学会の会員。最初に私が、課題の分離はトマス・ゴードンのPETからスタートして、どのように野田先生のPassageに行き着いたかという話を30分でした。これは2023年日本アドラー心理学会広島総会での演題発表の内容で、すでに『アドレリアン』誌103号に短報として載せた。

それに続いて梅ちゃんの話。結論としては「課題の分離はその賞味期限は終わった」ということ。別にそれを使ってもいいけど、使わないでも全く問題ないし、その方がいいというのが結論。詳しくいうと次のようになる。

課題の分離はロジックで動いている。問題の所有者は、その自然の結末を被る人なので、その人に任せるというのがそのロジックだが、実際にはふたりが協力できるポイントを共同で見つけていくというプロセスが必須になる。それをしないで課題の分離をすれば、意識的にも無意識的にも復讐的に使うことができ、それをするとふたりの信頼関係が壊れる。元々弱くなっている信頼関係が壊れれば、それを修復するのは時間がかかる。

課題の分離はゼロか1かのロジックになりやすいけれども、現実の生活の問題はゼロから1までのグラデーションになっている。宿題をやるというような完全に子供の課題であるように見えるものでも、子供が疲れているというような状況によっては、親が関われる部分はある。

親子関係でも、教員生徒関係でも、課題の分離のおかげで私は救われたと思っている人はかなりいる(そしてそれが課題の分離が現在まで生きながらえている理由だろう)。

課題の分離が救うケースとは、ふたりがお互いにもたれかかっている状態で、「私なしではこの子は生きていけない」と信じている状況にあって、自分がもうつぶれてしまうというときに当人が救われるケースである。そのときに課題の分離をすれば、少なくとも自分だけは救われる。ただし、この場合は相手は置き去りにされるので、もっと酷いことになるだろう。

ここで「私なしではこの子は生きていけない」と本人が信じているのは、実は逆である。実際は「この子なしでは私は生きていけない」という子どもへの極度な依存状態にある。このことを本人が認識すれば、課題の分離という行為を使うことなく、本人の自立への一歩が踏み出せる。本人が自立しなければ、相手を援助することはできない。

以上のようなことを梅ちゃんの「あたま/こころ/からだ/くらし」モデルを土台にしながら、「もたれかかれ状態」のデモンストレーションなどを駆使して説明してくれた。課題の分離なしに協力・信頼関係に進んでいくにはどうしたらいいかという道筋を明らかにしてくれて、とても良かったです。