KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

Webページを書き続ける人

先日、テレビの「ニュースステーション」で小室哲哉がインタビューされているのを見た。彼は自分のWebページを開いているという。しかも、売れっ子の芸能人にしては珍しく、自分自身で内容を書いているというのだ。見るからにナルシストらしいな、と私は思った。しかし、彼の話は本質をついていた。Webページを自分が書くのは、(自分がコントロールできない)マスメディアを通過した情報ではなくて、「自分自身のコトバ」で発信したいからなのだという。

先進的な学校の中では、学生や生徒が自分のホームページを開くことが可能であり、多くの場合、奨励されてもいる。しかし、初めのうちは、まるで花火があがるようにページが開いていっても、その物珍しさ効果が切れたあとに、ページ作りを続ける人はどれほどの割合になるのだろうか。また、ページを作り続ける人とそうでない人の違いはいったいどこにあるのか(これは卒論のテーマにすると面白いかもしれない)。パソコン通信の研究でいわれるような、一割の発言者と九割のROM(リード・オンリー・メンバー/読むだけの人)というような関係になるのだろうか。

これは金子郁容が雑誌の対談で言っていたことなのだが、これまで情報は集めてため込むものだったけれども、逆に情報を出して、その反応を得ることによって、自分が力を得るという道が開かれている、と。これは個人から見たときの、インターネットのとてもまっとうな使い道だ。書いたことへの第三者からの反応で、さらに書き続ける力を得る。私の意見をさらに言えば、自分が書いたことに対する反応は、必ずしも具体的なリアクションとして戻ってこなくても、いい。つまり、書き手が、自分の心の中の読者を意識しながら書いているときには、すでにかなりの部分の労力が報われているような気がする(つまり読み手のリアクションをシミュレーションするだけで十分だ)。これは私の体験から、そう感じられる。

おそらく、Webページを書き続ける人がそうするのは、よく言われるように「そもそも全員がもっている情報発信の能力」の発現なんかではなくて、自分が書き続けるためのエネルギーの供給ルートをどうにかして、自らが見つけてしまった人たちなのだろうと考えられる。