KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

忙しいのは、いや

今週は、授業が始まったり、東京に一泊でとんぼがえりの仕事があったりで、あっというまに過ぎてしまいました。忙しいのは、いやですね。なんだか、自分の一週間を安く売り渡してしまったみたいで。ぼくは、毎日のひとつひとつの出来事を大切に味わいたいと思う。

忙しいのはいいこと?

確かに、ある人にとっては、忙しいということが、生きている実感の素という場合があるし、「お忙しそうですね」というのが、挨拶の代わりになったりして、そう言われた人も、「いやあ、ここんとこ、ちょっと忙しくてね」などとちょっとうれしそうに答えたりするのは、その証拠だろう。たいていの人にとって忙しいことはうれしいことらしい。

そりゃ、一般的には、暇であるよりも忙しいほうが、いい。暇だということは、仕事がないということで、仕事がないということは、その人が無能だと周りに認められていることだからだ。無能な人には、仕事は頼めない。逆に、「仕事は忙しい人に頼め」という格言があるように、仕事がたくさんきて、忙しい人は、有能だと認められているのだ。だから「忙しそうですね」は、相手の自尊心をくすぐる絶妙な挨拶だ。そう言われて怒る人はいない。しかし、「暇そうですね」と言われると、たいていの人はムッとくるよ。

でも僕には「忙しい」ということばに妙なこだわりがあって、ほんの挨拶代わりの「お忙しそうですね」の問いに、「いいえ、それほどでも」なんて、まじに答えてしまうことが多い。あるいは「いえ、ほとんど暇です」と挑戦的な答えをすることもまれにある。これじゃ、円滑な挨拶の交換にならないな。とはいえ、これほど「忙しい」ということばが氾濫しているのは、ちょっとおかしいんじゃないだろうかと思うことがある。

ほどよいペース

「忙しい」の反対の状態は「暇」なのではなくて、「ほどよいペースで進んでいる」ということである。忙しい人が多いのは、自分のペースで仕事をすることができない人が多いからかもしれない。たいていの人は、お客や上司の都合で決まったスケジュールによって動かされているものだから当然のことかもしれない。しかし、ある程度、自由度のある仕事をしている人であっても、自分のスケジュールを管理できていないのか、自分がなすべき仕事と他に回すべき仕事をうまく区分していないのか、あるいは、正しく断ることができなくて、頼まれた仕事をすべて請け負ってしまっているのか、いずれにしても、自分のペースを守ることは容易ではない。しかし、だからこそ、挑戦すべき課題だともいえる。

それほど忙しいようには見えない人でも、「忙しくてね」を連発していることがある。これは、社会心理学で言うところの、セルフ・ハンディキャッピングである。つまり、「本当の自分の実力はこんなもんじゃないんだけどさ、ちょっと忙しくて時間が充分に当てられなかったんで、こんな程度でがまんしてくれ」ということを無意識のうちに相手にメッセージしているわけだ。これは、やだね。依頼主に対するいいわけをしていると同時に、自分の自尊心をとにかく守ろうという、心の弱い人だ。

忙しいと言わない

私の尊敬する先輩先生は「学生さんの前では、たとえ死ぬほど忙しくても、けっして忙しいといってはいけない」という警句をくれた。一度でも「忙しいから」と言ったら最後、学生さんはもう相談しにきてくれないよ、と。先生は、学生さんの相談に乗るのが仕事の商売なのだ。仕事を放棄してはいけない。したがって、先生には「忙しい」は禁句である。(しかし、私は「忙しい」とは口に出していわないが、本当に忙しいときは「態度」に出てしまうらしい。修行不足である)

「忙しい」という言葉を言わなくなると、心が落ち着いてくる。死ぬほど忙しいときでも、「ああ、これは決められた締め切り日が近づいているにもかかわらず、予定した通りには仕事が片づいていないという状態なんだな」という冷静な分析ができる。冷静な分析ができれば、その対応策もできる(はずだ)。少なくとも、「あー、忙しいっ」と頭をかきむしったり、「なんで俺だけが、こんなに忙しいんだろう」と周りを恨んでみたり(他の人は暇そうに見えるものだ)するよりは、適切な対応ができるだろう。

てなぐあいに、月末に締め切りを抱えて、あまり原稿がはかどっていない自分を慰めてみたりする私なのであった、ううむ。