KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

ネグロポンテの「使えないウインドウズ」

 「ワイアード」誌が次号の11月号で休刊するとのことだ。創刊号から読んでいるので残念ではある。細かい活字に派手な背景のまったく読みにくいことでは右に出るもののない雑誌だが、それにもかかわらず読む価値のある文章が多かった。実にとんがった雑誌だった。

 その中でも私のお気に入りは、米国版Wiredからの翻訳、ネグロポンテのコラムだった。今月号(10月号)の彼のコラムのタイトルは「使えないウインドウズ」。ああ、彼もマック派だったのか、と思いながら読む。15年間毎日使い続けてきたマックから、つい最近仕方なくウインドウズに乗り換えたという。ご愁傷様。

 ウインドウズに乗り換えてから悪夢が始まったという。機能にも操作にも一貫性がない、と。しかし、ネグロポンテともあろうお人が、いまさらなにを言うのだろうか。そんなことはわかりきったことじゃないか。MacOSのインタフェースデザインは、そのデザイン原則を記述した何冊ものガイドラインがベースになっているのだ。それにしたがってソフトを作る限り、一貫性は保証される。ウインドウズは、MacOSの見栄えをパクっただけ、といって悪ければ、せいぜいパロディにしか見えない。一貫性がないのは当然である。

 一貫性を保つということは実に地味で、目立たない仕事である。しかも、一貫性を貫き通すことは困難な仕事でもある。ちょっと気の利いたことをしてやろうとか、他とは違う何かを見せてやろう、という衝動が個人レベルでも集団レベルでも常に私たちの行動を突き動かすからだ。しかも、市場主義の世の中では、少しでも他とは違う何かを付け加えなければ、その商品は売れない。売れないものは市場から消え去る。したがって、一貫性を保つことを厳しく自己に律してきたものは常に厳しい戦いを強いられる。

 このようにして、原則無しに、新しい機能を付け加え続けてお化けのようなソフトができあがる。重くて、複雑で、使いづらい、そして高いソフトである。この前のPCカンファレンスでよく聞いた話は、例外なしにウインドウズのソフトのことである。WORDというソフトが難しい講習会を受けなければ使えないのだということをよく聞いた。たかだかワープロソフトをそんなに難しくしていったいどうしようというのだ。

 無原則な商品を作り続ける会社が一方の罪ならば、もう一方の罪は、コンピュータは速いほうがいい、ソフトは多機能なものがいい、と信じ込んでいるマニアである。彼らにはほとほと愛想が尽きる。彼らのアイデンティティはまさにそこにしかない---他のことでは彼らの頭は空である---ので常に行き過ぎるのである。パソコンの話となると「もっとすごいのがありますよ」と勝ち誇る。それがどうした。それはあんたが作ったのか。あんたが作ったのなら、少しは尊敬してやるが、それを知っているだけで、あるいは、それを持っているだけでなんでそんなにエライのか。恥を知れっつーの。

 この手のマニアはあらゆる職場のいたるところに生息する。はた迷惑なやつらである。彼らの迷惑さは、初心者にレース用のスキーを勧めるような定見のなさである。つまり機械は知っているかもしれないが、人間を知らないということだ。あるいは生身の人間に興味がないということか。

 遅いパソコンの上でも、シンプルなOSとシンプルなアプリケーションでおもしろいことがたくさんできる。それを創造力と呼ぶのである。マス目を引いただけの原稿用紙からおもしろい小説が無限に生み出される。そろそろマス目を引いただけのパソコンができてもよさそうな時期である。そうなれば、大切なのは複雑怪奇なデラックスパソコンに振り回されることではなくて、シンプルな環境で無限の創造力を発揮すべく、自分の脳ミソを鍛えることだということに気がつくだろう。