KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

父の戦争

終戦の日で、テレビは特集番組を流している。

戦争映画を見るのは好きだが、自分で戦場に行くのは嫌だと思う。それより以前に兵隊の訓練が嫌だと思う。だから徴兵制のある、たとえば韓国の人たちにはすでに負けているという感じがある。何に負けているのかと問われると困るのだが、厳しい訓練を経ているということで、すでに「かなわない」という感覚がある。

私の知っている韓国人はみんなエスペランチストだ。そんな彼らとエスペラントで話すと、歴史や政治の話ではなくても、何か彼らの方が信念があり、大人だという感じがするのである。対等な言語で話してみるとよくわかる。それとも、単に私が「おこちゃま」なだけかもしれないけど。

映画「フルメタル・ジャケット」などを見ると、人間は訓練によってどんなふうに信念を破壊されていくかがよくわかる。兵士としての訓練は、肉体的な訓練と精神的な訓練の両方がなされる。肉体的な訓練は物理的にやらなければならないものだけれども、せめて精神的な訓練はもっとソフトにできないものだろうか。心理学的な技術でソフトな洗脳が可能になっているのではないか。

いずれにしても心底嫌なのは、そうした訓練プロセスで、人間が人間でなくなっていくことだ。兵士訓練の目的は、効率よく敵を殺す機械を作ることなのだから。

私の父はもうずいぶん前に亡くなった。私には、戦争の話は、まったくと言っていいほどしなかった。ただ、シベリアに抑留されて、つらい目にあったことは確かだ。それについての感謝状(というか、ねぎらいの言葉)が額に入れられて、実家に飾られている。

父の戦争についての情報はそれしかない。私は、今は、そのことを特に知りたいとも思わない。しかし、父が生きていた時にもし話を聞く機会があったならば、聞いておきたかったなと思わないでもない。