KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

プロ野球という醜悪な見せ物

 プロ野球が始まっている。テレビをつけるとたいていは中継している。見てしまう。妻に「また?」と非難されようと見てしまう。これといって応援している球団があるわけではない。「トラキチ」とか「三代続いたジャイアンツ・ファン」とかいうのを聞くと、なんて単純で幸せな人なんだろうと思う。そして特にどこを応援するというのがない人はちょっと不幸だな、と思ったりする。かといってどこのファンになろうとも思わない。特定の選手を応援するという気にもならない。

 それでもなぜプロ野球を見るのかといえば、おそらく劣勢だったのをはねかえして逆転したり、ツーアウトランナーなしから点を取ったりするのがドラマチックだからだろう。それが証拠に、「8対0」などという試合はすぐにチャンネルを替えてしまう。見る気がしない。これがチームのファンであれば99パーセント勝つという試合でも最後まで見ているし、特定の選手のファンであれば、その選手が打席に立つだけで満足感を得られるのだろうが。

 ふと気がついたのだが、バッターがホームランを打つということはピッチャーが嘆き悲しんでいると言うことだ。ピッチャーが無安打ピッチングを続けているということは、バッターが嘆きの三振の山を築いているということだ。一方が喜べば、他方は悲しむ。両チームの人が同時に喜ぶことはない。そういうふうに運命づけられているのだ。

 当たり前だ。試合をしているのだから。その試合を見せてお金をもらっているのだから。なんだ、そうだったんだ。そう思った瞬間、プロ野球が実に醜悪な見せ物であることに気がついた。