KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

けんきう者になる方法

……なんだい? このタイトルは?

相変わらず、わが研究室は大学院生の不足に悩んでいるわけだが、きょう、学部の三年生が「大学院に行こうかな〜」というやや軽いノリながらもうれしいことを口走っていた。で、聞いてみると大学の教員になりたいという。

……なんで?

と、私も同じことを聞いたのだな。そうしたら「向後先生(私のことね)を見ていると、なんだか楽そうだから」といった。

……がははh

妙な笑い方をするなよ。まあ、その通りなんだけどね。実際、教員になってからこの仕事がつらい、やめたいと思ったことは一度もない。僕は学部を卒業してから二年間サラリーマンをやったんだけど、その時の日記(紙の)には「やめたい、やめたい」と書いていたな。で、きょうの日記には「大学教授になる方法」を書こうと思ったんだけど、よく考えたらそれはすでに鷲田小彌太がすでに本として書いている。

……どうすれば大学教授になれるの?

鷲田が書いているのは、偏差値50の人でもなれる、と。ポイントは、大学で職を得ることができるのはだいたい30歳を越えるから、そのときまでいかに食いつなぎつつ、研究を続けるかということにつきる。

……一種のがまん比べだな。30歳までどうやって定職につかないで、食いつなぐかという。そうしているうちに多くのライバルはまっとうな道に吸収されていくから、残ったものが大学に職を得ることができる。大学の先生に変な人が有意に多いのはこのせいだな。

まあ、そういう図式だ。しかし、これもだんだんと変化していることは確かだ。これまで純血主義だった大学が、企業やマスメディア関係、ジャーナリストなどから多彩な人材を採用するケースが増えてきた。だから、がまん比べによって大学に職を得るという方略の有効性は相対的に小さくなっていくだろう。これからの大学は、あらゆるところから研究者を発掘して、吸収し、また放出していくはずだ。

……それでタイトルの「けんきう者になる方法」につながるわけか。

研究者とは何かとたずねられれば、研究している人なわけだ。では、研究することとは何かとたずねられれば、私なら「本当のところを知りたいと思ってする行為」と説明する。

……では「本当のところ」とは何か?

「見えないものを見ること」じゃないかと思う。誰でもいろいろなものや現象を見ることができるわけだけれども、その見え方だけでごまかされてしまうことがあるわけだ。あるいは見えたということだけで満足してしまう。しかし、実際にはその見えの裏側で働いている仕組みがあるわけで、それを明らかにすることが研究なんだと思う。そういう姿勢を持った行為はすべて「研究する」というカテゴリーにいれていいんじゃないかと考えている。

……「見えないものを見る」か。確かに虚数やマイナスの数は見えないわけだけれど。