KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

未来記憶としての日記

 日本心理学会の三日目。最終日だ。今回も三日間まじめに通った。いつからだろうか、学会に参加するときは全日程をまじめに聞くようになった。大学院生の頃は、自分の発表の義務を果たし終えると、遊びに出かけていたような気がする。あるいは喫茶室で知り合いとおしゃべりをしているとか。

 それは、つまり、他人の研究のおもしろさがよくわからなかったからなのだろう。ある学問分野を一通り見渡せるような知識が備わって、初めて個々の研究のおもしろさがわかってくる。だから、院生の頃は、そのおもしろさがよくわからずに、他人の研究の話も聞くことができなかったのだ。今はそのおもしろさがちょっとはわかるようになったし、何よりも勉強になる。少なくとも大会参加費を払った分だけは、おもしろがりたいという欲張りがでてきたとも言えるだろう。

 今回はプログラム最後の時間帯のワークショップで話題提供を依頼されていた。学校におけるストレス・マネジメント教育についてのものだ。門外漢ではあったが、他の発表者のじゃまにならないようにまとめた。それが終わると、夕方6時だった。富山行き最終の「しらさぎ」は8時10分発なので余裕がある。たまたま出口で会った児玉さんと夕食をとる。児玉さんはニフティの心理学フォーラムの認知心理学会議室のボードオペをしている人。

 児玉さんは、「展望的記憶(prospective memory)」についてのワークショップを聞いていたので、その話を聞く。ワークショップやシンポジウムは並行していくつもの番組が行われているので、でられなかった番組の情報を交換するのはおもしろい。展望的記憶というのは、未来に関する記憶だ。たとえば、今日はどんな仕事をやろうとか、今年はどんなことをやりたいなどの自分の未来についての記憶。普通、記憶というのは過去に関することなので、展望的記憶はその点で対比をなしている。

 ワークショップでの話題の焦点は、展望的記憶というのは「何かしなくてはならない」というトリガーと「そのしなくてはならないことは何か」という内容から構成されていて、しかもトリガーと内容とは別々の記憶なのではないかということだったらしい。これは私たちが日常的に体験する「あー、何かやらなきゃいけないことがあったんだけど、何だか忘れてしまった」というようなことからも納得できる。

 そこから話は日記へと脱線する。日記というのはすでに起こったことを記録するものだ。このように頭の中ではなく、頭の外に記録されたものを「外部記憶」と呼ぶ。日記とは反対に、スケジュール帳は「展望的外部記憶」ということになる。

 日記は過去の事柄を書くものだが、それだけなのかということを問題にした。もし日記の意味が、過去についての外部記憶にとどまるとすれば、これほどたくさんの人は日記を書かないのではないか。それでも日記を書くのは、そこに何かしらの未来への展望や教訓を示しているからなのではないだろうか。

 たとえば、ある日の出来事としてなにか失敗してしまったことを日記に書く。そのことは事実だ。しかし、それを記録することによって将来同じような状況になった時への教訓として記録するという意味合いが含まれているようだ。失敗や悲しいことを書くのは、将来それを繰り返さないためであり、成功やうれしかったことを書くのは、将来それを繰り返したいためなのではないか。

 そう考えると、日記は過去のことを記録しつつ、それを未来に生かすための外部記憶なのではないかとも考えられるのだ。