KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

日本心理学会@中京大学のハイライト

 少しさかのぼって、日本心理学会の一日目と二日目の中から印象に残ったものを書き留めておこう。

複数の人が関係する認知過程

 亀田さんは強い「相互作用」を仮定しないという立場を示した。ギブソン的にいえば、分業の構造が相互作用をアフォードするのだと。アフォードの話はやはり言葉の遊びのように思える。しかし、相互作用というのは本当にあるのかという懐疑は、アプローチの一つとして有用ではないかと直観した。

 このシンポジウムの中で仮説実験授業の人も話題提供をしたのだが、その内容がなんだか古くさいものに感じられた。きっとその授業全体があまりにもお膳立てされすぎている——誰が見ても決着が付く演示実験や二群に分けての討論など——せいだろう。もちろんその場にいる生徒にとってはリアリティのある設定なのだろうけど。

 Bransfordのコメントは、グループがうまくいくときと「衆愚」になってしまうときの決定因は何なのかということがResearch Questionとして成り立つだろうと。ポイントはコミュニティということ、そこで発言することが「安全」であるかどうかにあるということを言っていた。

■成功する心理学者

 「成功する心理学者」という臆面もないタイトルのシンポジウムについては、長谷川さんの9/6の日記にも記述がある。

 来年から中京大学に「心理学部」が日本で初めて設立される。しかし、それはむしろ遅すぎたくらいだ。たとえば日本心理学会が学会としてもっと働きかけるべきだったという話があった。できれば心理学の認定テキストや標準のシラバスなどを作って、心理学を学んだ人の学力保証をすべきだという意見があった。

 「成功」するための第一歩として就職がある。そのときの人事に考慮されることとして、(1)英語論文は必要、(2)被引用ポイントを上げる(北大では実際に行われている)、(3)掲載誌の格よりも、内容で判断される(しかし実際は査読付き論文の数が効く)という3点が示された。独立行政法人になると、すでに就職している人も、私も、他人事ではなくなる。

■質問よりも批判を書かせる

 邑本さん(北教大)の文章理解についてのポスター発表。文章を読ませた後に、(1)何もしない(統制群)、(2)疑問を生成させる、(3)批判を生成させる、(4)具体例を生成させる、ことをやらせた後に、理解度テストをした。そうしたら、疑問生成群は統制群に比較して有意差なし、批判群と具体例群は有意に得点が高くなった。

 これを敷衍すれば、授業での「質問書方式」よりも「批判書方式」の方がいいのではないかということが予想できる。質問書方式はもちろん何もやらないよりも効果的な授業のやり方だが、良い質問が書けない学生は最後まで書けないし、良い質問の例示もあまり効果はない。それは浅いレベルでも質問が簡単に作れてしまうことによるのだろう(たとえば「○○って何ですか?」)。しかし批判を書くとなれば、相手の言っていることをまずよく理解しなければならない(質問は相手の言うことを完全に理解しなくても書けることと対照的)。

 これについて広島大学の中條さんのコメント。「質問はありませんか?」ということで挙手をして質問していた人というのは、実は質問の形式を取りながら、自分で別の解や意見を持っているわけで、実態は「批判」であった確率が高い。授業の一環として強制的に書かせる「質問書」というのは本当の疑問から出て来るもの(その背後に批判を含むもの)ではないのではないか、と。

 来年度の「心理学」授業は「質問書方式」ではなく「批判書方式」を試してみようかと考えている。

■心理学研究における仮説

 岡田猛さんの講演。ハーバート・サイモンは「前もって明確な仮説がたつような研究は面白くない」と言っている。調べてみると、化学や地学の論文ではほとんど「仮説」が明示的に書かれていない。このような「面白そうなので、やってみました」的研究は科学の領域でたくさんある。しかし、心理学ではほとんどの論文に仮説が明示され、また、それがない論文は査読段階で落とされている。

 論理実証主義と仮説演繹法が支配しているとしても、実態は、「発見の文脈」と「正当化の文脈(検証)」とがダイナミックに相互作用しているということだ。「物理学者は仮説から研究を始めるのではなく、データから始めるのだ」(ハンソン)。

 発見の文脈での方法論が精緻化されていないのではないかという、私の質問に対して。日常の観察、データをよく見る、現象そのものを見る、心理学の歴史を見ると根本的な問いは不変であるということ、秘密兵器を持つ、ということを挙げていた。