KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

アカデミアはプロスポーツの世界

 予定日12月25日で妊娠中の妻が、「高血圧と体重増加」のため入院してしまった。たぶん医者は入院させてコントロールした食事をとらせるのが効果的だと判断したのだろう。外見的には、本人はいたって元気だから。

 というわけで、しばらくの間は自宅と妻の実家(に子供を預けてある)とその近くの病院を渡り歩くことになる。二人目の子供はもう少しらくちんかと思ったら、そうもいかないようだ。

 10/17の日記で、国立大学の独立行政法人化について書いたところ、次のようなメールをいただいた(ありがとうございます):

 第三者からの評価が重要であると言う論旨には同意します。ただ個人的には、もっとも重要である学生からの評価をもっと導入する点について、意見が聞きたかったです。

 アメリカにいると当然と思うのですが、教員はいつも学生に評価されています。僕の在籍している大学では、学生はすべてのClassについて、各セメスター中2回もオフィシャルな授業評価表を提出します。その結果はもちろん学部、大学内部のCommitteeに回され、次年度の大学教員への評価(Tenure Track中の教員には特に重要)につながります。驚くべき事に、調査結果は何千部も刷られて、次年度のSemester前に大学中に山と積まれます。もちろん大学当局がこれをやっているのです。

 結果的に、学生の評価が悪かった授業は必修でない限り次年度「客」がつかなかったりするわけです。元々こちらの大学のシステムはFlexibleですので、他学部の同様の授業を取ったりしても単位になる場合が多いですし。

 もちろん弊害もあるはずです。ですが、実感として教員の学生へのサービス度は明らかに違います。例えばどんなに的外れな質問にもしっかりと答える、GradeやExamの評価方法などを事前に情報公開する等。プラス面のほうが多いように感じます。

 学部の仲がいい教授(日本人)にこのへんの事を聞いてみたのですが、とにかく大変だ、と言う事です。もちろん苦労している分、その人の授業はわかりやすいと評判ですが。

 このアメリカのシステムに慣れてしまうと、「質が悪い」大学教員は、淘汰されても仕方が無いと思うのです。元々Academiaと言うのは天国では無く、Pro Sportsのような世界だと、僕は思います。

 国立大学を卒業した者としては特に、ある意味劇薬がないと旧来のシステムは変わらないと思います。

 これはもちろん、アメリカの大学にいて、日々追放される教授や大学院生を多く見ている人間の意見ですが。

 日本の国立大学とアメリカの大学を体験している方の意見だから、説得力がある。とりわけ、学生による授業評価の結果が印刷されて配布されるというのはすごい。たまたまきょう(10/18)の「じぶん更新日記」でも授業評価についての話題がでている。

 私自身は、自分が担当している授業については少人数ゼミを除いてすべて授業評価をしてもらっている。まあ、それが教育工学研究者としての研究の一部分でもあるからということもある。また、どのような評価シートを作成すればいいのかということも研究していたりする(たとえば「ARCS動機づけモデルに基づく授業・教材用評価シートの試作」など)。

 全体から見れば自分の授業を評価してもらおうという教師はわずかである。しかし、一度こういうアンケートをやってみれば、自分の授業がどのように受け取られているかがよくわかるし、それによって授業を改善しようという気もおこってくるのである。評価のないところに改善はあり得ない。毎年同じように評判の悪い授業があるというのは(学生に聞けばすぐわかる)、それを排除するようなシステムがないということだ。

 富山大学全学部で教養科目として選択できる「言語表現」では共通の形式の授業評価を行っている。しかし、それは担当の先生に結果をフィードバックするだけであって、学生に公表するところまではいっていない。

 システムとしての授業評価は独法になれば、行われるようになるのだろうか。そんなことには関係なく今だってやろうと決断すればできるのではないか。しかし、「学生に私の授業を評価できるわけがない」と公言するような思い上がった教員や、「授業評価が自分の業績評価に使われることは許さない」という特権意識ばかり先走った教員がいる限り、現段階では無理だという判断なのだろう。