KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

議論をふっかける訓練

たまたま、ゼミで「未来の学校はどうなっているか」というような話題で議論した。議論とはいっても、私と一人の学生が、ほとんど一対一で話をしていたわけだ。ああ、こういう議論は楽しい。相手の学生はちょっとひねたところがあって(いい意味でね)こちらの話にすぐには納得しない。なんやかやと反論をふっかけてくる。だから、それに対して私は説明しなくてはならない。そうするとまた反論をする。私が説明。という具合に議論は延々と続く。これが楽しい。こうして続けているうちに、自分で思ってもみなかった発想がひょいと出てくることがある。

学生とさしで話をすると、ちょっと説明すると、たいていは相手が「なるほどそうですね」ということですぐに終結してしまう。議論にならない。話が続かない。だから、こちらの考えも深まらない。表面的な説明で事足りてしまうから。つまらない。「本当に納得しているの?」と問いただしてみたくなる。まさか教員の言うことはすべて正しいなんて思っているんじゃないよね? おかしいなと思っても優しいから言わないでおく? 相手するのが面倒だから適当なところでうなずいておく?

思い出してみると、僕が大学生、大学院生だったときのゼミでは、考えつくだけの反論、質問、いちゃもんを先生に突きつけていたような気がする。時にはバカにされようが、うるさがられようが、そうしていた。それは、当の先生がまさにそうしていたからだ。彼は、学問の世界でエスタブリッシュされたものや、今まさに流行にならんとしているもの、そうした理論や仮説を徹底的に疑っていたし、半分バカにしていた。その後わかったのだが、何事かをバカにするためには、その何事かを徹底的に勉強しなければいけないということ。そうした上で初めて何かをバカにすることができる。実際その人はそうしていた。

何かをバカにするのは常識的にはあまり上品なことではない。しかし、彼はあえてそうしていたのだ。「○○なんてくだらない。たわごとだよ」と口火を切ることによって、そのくだらなさ、間違いを徹底的に批判していく。そして、自分ならこう考えるという対案を出していくのだ。つまり「○○はバカげている」とあえて言うことによって、自分を追いつめ、それを越えるものを考え出そうとする仕事を自分に負わせていたわけだ。そういうやり方の先生であった。

ゼミでのその学生との議論は、彼のねばりのおかげで、簡単に終結することなくひとしきり続いた。しかし、まわりの学生たちは、その議論を、私と彼だけの「個人的なもの」だと解釈した。しびれを切らした一人の学生が「もう解散してもいいですか」と聞いた。私は「いいですよ」と答えた。寂しい。しかし、それは、ゼミで何をすべきかということを学生に訓練してこなかった私の責任でもある。自業自得である。