KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

シンポジウム「多文化共生の21世紀へ」

早稲田で開かれたシンポジウム「多文化共生の21世紀へ---英語公用語論をこえて」を聞きにいった。パネリストは、佐高信(評論家)、小倉利丸(富山大学)、安田敏朗京都大学)の3人。聴衆は129人集まった(参加費1000円)。

佐高さんの話:

「あえて英語公用語論」を書いた船橋洋一は同年代の友人。英語公用語論のいやらしさは「公」というものを持って来るところにある。それが英語「奨励」論でないところに注意すべきだ。結局のところ、英語公用語論は、現状を固定し、その中でうまくやっていこう、とする論だ。公用語にはけっしてならないものとして、エスペラントの生きる道がある。

英語と経済とが結びついている。バブルの時期を思い出す。いつの時代にも「〜に乗り遅れるな」という人がいる。しかし、その中にも「こんなアホな時代が続くわけがない」と見抜く人もわずかだがいた。そうした人はバブルにもやけどをしないですんだ。周りの人から「〜に乗り遅れるな」といわれたときに、どういう腰の落とし方をするかが問われている。現在は「英語に乗り遅れるな」であり「ITに乗り遅れるな」といわれる。しかし、「乗り遅れるな」論によって切り捨てられていくものがあることに気付くべきだ。

「乗り遅れるな」といわれたときに「好きな人はそうやっていればいいよ」と切り返せる、逆噴射のできる人々が必要とされている。

小倉さんの話:

NGOにかかわってきて、その中で英語でコミュニケーションすることは、避けられないし、また一部に歓迎されてもいる。しかし、こうした状況の中で、英語ができないということで議論から排除されてしまうということがある。この傾向が続けば、議論によって決定されていくプロセスでは、英語のできる人、つまり、英語に投資のできる人だけが関与できることになる。それは特定のクラスの人が占めることになり、結果として一般的なスタッフやボランティアが意思決定から排除されるということが起こってくる。「コミュニケーションが重要だ。だから英語だ」というのは明らかにおかしい。

安田さんの話:

公用語論の違和感は、本来言語の使用が「個」にゆだねられるものであることにある。英語を公用にすれば、必ず弱者が生じる。それも明らかな形で。それを救済する覚悟があるのかどうか。