KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

中世の世界観からデカルト二元論を経て、ベイトソンに至り、全体論科学の方向性を探る。たいへん影響を受けた。何度か読み返すことになるだろう。

ところが近代の内側に棲む我々は、物体−運動−実験−定量化という概念で固めた世界を、「現実」であるとして、残りのものをはねのけているのである。……説明できるものしか説明しないという点では、我々の世界観も、魔術的世界観やアリストテレスの世界観と変わらないのだ。

探求すべきものは、割れられの精神と対峙するそれぞれ別個の実体の集まりではなく、これまで「主体」と「客体」と呼ばれてきたもの同士の関係なのだ、ということが認識されるようになるだろう。この発想は、電気力学における電界という考え方にたとえることができる。この考え方においては、物体と力とがひとつのシステムとして捉えられ、この電界全体の中にエネルギーが内在しているとされる。新たな全体論的科学もまた、人間をひとつの力の場のなかに置いて考えるだろう。この新たな世界観は、「関係」のなかに「エネルギー」が内在すると考えるだろう。言いかえれば、システムの構造自体の、変化し続ける生態学的パターンのなかに「エネルギー」を見出すのである。

「物質」や「データ」や「現象」に対峙できるのは、身体から離脱した知性だけである。これらカッコに入れた言葉はみな、西洋文化が主体/客体の二分法を維持するためだけに用いるインチキな用語なのだ。このまやかしの二分法が葬り去られたとき、我々は身体的科学世界へと入ってゆき、デカルトときっぱり決別することになるだろう。

人間の行動は第二次学習に支配されている。第二次学習の結果習得した予測の型にコンテクスト全体がうまく適合するような行動をとるのである。言いかえれば、第二次学習は自分で自分の正しさを規定する。……ベイトソンの考えでは、この束縛から逃れるための唯一の道は「学習III」である「学習III」においては、ふたつのパラダイムのどちらがよいかということはもはや問題ではなくなる。パラダイムというものそれ自体の本質を理解すること、それが学習IIIである。

アナログ的知は、自らが存在するために、デジタル的知にほとんど依存していない。アナログ的知はいたるところに浸透した膨大な知である。アナログ的知こそが、知覚と認知の土台なのだ。近代以前の文化においても、もちろんデジタル的知は存在したが、それはアナログ的知のための道具にすぎなかった。科学革命以降、逆にアナログがデジタルの道具となり、デジタルによって全面的に抑圧された。