KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

コンテクスト、論理階型、関係性。そこここに示唆的な文章を見つける。示唆というのは何だろう。そこで語られているコンテクストに何か関係のありそうな自分自身が考えている問題のコンテクストを見出すということなのだろうな。

子供たちはいまだに「名詞」が「人や場所や物の名前」だとか、「動詞」が「動作を示す言葉」だとかいうナンセンスを教えられている。まだ頭の柔らかい時期に、定義するとはあるものをほかのものとの関係において見ることではなく、ものがそれ自体で何であるかを言うことだという誤った考えを植えつけられているのである。……すべて情報伝達にはコンテクストが必要だということ。コンテクストのないところに意味はないということ、コンテクストが分類されるからこそコンテクストから意味が付与されてくるのだということを教えられなかったものだろうか。

一つの独立した個に関する供述と、それらをまとめた類に関する供述との間には、大きな隔たりがあるのだ。両者は異なった論理階型(ロジカル・タイプ)に属するのであり、一方から他方を正確に予測することはできない。「この液体は沸騰している」というのと「この分子が最初に出て行く」というのとは、互いに論理階型の異なるレベルの話なのだ。

生物が欲求する物質、物体、パターン、あるいは生物が何らかの意味で「いい」と感じる経験---食物、生活条件、温度、楽しみ、セックス等---に関しては、多ければ多いだけいいというようなことはけっしてあり得ない。つまり物質や経験の最も好ましい量というものが存在する。その量を越えてしまうと、毒性が生じ、その量から落ち込むと欠乏感が生じる。

いわゆる客観的情報の追加がまったくなくても、別の記述体系によって表し直してみることで、理解の度が増す場合が良くある。与えられた数学の定理を二通りのやり方で証明してみると、証明が明らかにする関係の把握度が高まる、というような例である。

パブロフのイヌは「識別のコンテクスト」から「賭けのコンテクスト」への飛び移りに失敗した。

関係は、一個の人間の内側にあるものではない。一個の人間を取り出して、その人間の「依存性」だとか「攻撃性」だとか「プライド」だとかを云々してみても、何の意味もない。これらの語はみな人間同士の間で起こることに根差しているのであって、何か個人が内に持っているものに根差しているのではない。