KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

インストラクションにおける治療契約

インストラクショナルデザインは、「どんな人が教師役になっても、この通りにやれば、まずまずのインストラクションが実施できる」ということを目指している。それなりの学習効果が生まれなければ、それは学習者のせいではなく、デザインされたインストラクションが悪かったのだ(だから改善する必要がある)とされる。

先日読んだ『心理療法』(頼藤・中川・中尾、1993)(http://d.hatena.ne.jp/kogo/20060608/p1)に「治療契約」のことが言及されている。セラピストとクライエントの間に治療契約が結ばれることそのものに心理療法の秘密がある。

一つ目は、治療効果の有無によらずクライエントは決められた金額を支払うということだ。つまり、その時間、専門家をわずらわせたのだから、効果があろうがなかろうが支払う義務を負う。

もし効果のないインストラクションを受けたら、受講生は「金を返せ」というだろう。それへの回答は「金は返せない。あなたは結果的に無駄な時間を過ごしただろうが、私も同じく時間を使ったのだ」となる。そういう枠組みなのだ。この枠組みの下で、受講生は「この時間を無駄なものにしないためには何をすればよいか」ということを考えざるを得ない状況となる。それが学習の第一歩となる。もちろん考えなくてもよいのだが、その場合は無条件に無駄な時間を過ごし、金を失うことになる。効果があるかないかは、受講生とインストラクションの相互作用によって決まる。どんな受講生にも効くインストラクションは、ない。受講生が自ら学習しようと決心しなければ何も変わらない。「この時間を無駄にしないためになにをするか」ということは受講生の決心を促すことになる。

二つ目は、クライエントにこそ試練が与えられるということだ。治療者に試練が与えられるのでもなく、その結果、治療者が成長してもしょうがない(もちろん治療者個人としてはいいことだろうけど)。

インストラクターが「こんなに一生懸命やっているのに」と言うことは意味がない。そのセリフは受講生が言わなければならない。インストラクターは試練を与え、受講生はその試練に耐える。そうでなければ、一つ目の原理によって、結果的に無駄な時間を過ごすことになる。つまりインストラクターの仕事は、ほどよい試練を与えることだ。受講生に与えられるべき試練を、インストラクター自身が背負い込んではいけない。

三つ目は、その技法の枠組みだけは遵守するという約束をするということだ。世の中には、さまざまな治療技法と治療形態があるだろう。しかし、いったん治療契約を結んだからには、私の枠組みに沿ってやってもらうよ、と約束する。

インストラクションの枠組みに疑義をとなえることはできない。そのためには、そこから離脱して無縁の人にならなくてはならない。枠組みの中にいながら、枠組みに反することはできない。枠組みが嫌ならば、そこから離脱することが可能だ。しかし、離脱しないのであれば、従わなくてはならない。それは、枠組みそのものに抵抗することで時間を無駄にするという行為を不可能にしている。

治療契約における以上の3つの制約によって、いったん治療の枠組みにはいったら、それに従い、時間を無駄にできないということから、試練を引き受けることになり、治療が進むということになる。それはインストラクションにおいても同型なのではないか。