KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

したがって、想定や反応がどんなものかを、ただ見るだけにしよう——自分の想定や反応だけでなく、他人のものも同様に観察する。他人の意見を変えようとしてはいけない。集まりが終わったあとで意見を変える人もいれば、変えない人もいるだろう。これこそ、私が対話と考えるものの一部である——つまり、一人ひとりが何を考えているかを、いかなる結論も導き出さず、判断も下さずに、人に理解させるということだ。

この本を読んでみて、ボームの言う「対話」のワークをやりたいなと考えている。

これまでのディスカッション活動は、問題解決指向、結論指向だった。その過程で意見を交換すること、相手を了解すること、そして意見を調整することが学ばれると考えてきた。

誰もが異なった意見を持っているとしたら、民主主義は単に意見を戦わせるだけのものである。そして、最強のものが勝利を収めるに違いない。その意見は必ずしも正しくなくていい。どの意見も正しくない場合もありうるかもしれないのだ。となれば、意見の一致を試みたとしても、うまくいくはずはない。

うまくいくはずのないことをリーダーシップという別の名前で無理矢理やろうとしていたわけだ。これではだめだ。

対話では、話し手のどちらも、自分がすでに知っているアイデアや情報を共有しようとはしない。むしろ、二人の人間が何かを協力して作ると言ったほうがいいだろう。つまり、新たなものを一緒に創造するということだ。だが、そうしたコミュニケーションで新しいものが創造されるのは、人びとが偏見を持たず、互いに影響を与えようとすることもなく、また、相手の話に自由に耳を傾けられる場合に限られる。まずは話し手の双方が、真実と、一貫性のあること(コヒーレンス)に関心を持つことが大事だ。

つまり、自分の意見や自分の立場、主張や偏見、思い込み、そうしたもろもろのものを手放し、自由になったあとで、相手との間に何か別の新しいものを創り出すという作業だ。そこでは、私の意見、あなたの意見、ではなく、何か違うものが生み出される。