KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

発明ということの認識の日米差

 今日(8/16)の読売新聞にヘンリー幸田さんという方が「ビジネスモデル特許と発明の本質」という記事を寄せている。amazon.comの「ワン・クリック方式」によるビジネスモデル特許が、それが特許として認められるのかを争った裁判で勝ったということから話をはじめて、「発明」についての認識に日本とアメリカとでは大きな違いがあることを指摘している。つまり、日本の特許制度では、発明の本質を「技術の進歩性」においているのに対して、アメリカでは「市場の需要=有用性」にあるとする。日本の特許の要件には「進歩性」が挙げられるが、アメリカではそれはなく、代わりに「非自明性=誰もが簡単に思いつくものではないこと」が要件になる。そして、次のように言っている。「優れた発明とは進歩を極めた技術ではなく、顧客の需要を満たす技術であることを明確に認識すべきだ」。

 これを読んで、なるほどと思った。あるアイデアを提示したときに、それが「進歩」であるかどうかは簡単には決められないけれども、それが「有用」であるかどうかは比較的簡単に判断できる。そのアイデアを買いたいといってくる人がいるかどうかを想像してみればいいからだ。しかし、それが「進歩」なのかどうかは、神様や次世代の人々にしか決められないものなのではないか。「進歩」の代わりに「新規性/新奇性」を使えばいいのではないかという次善の策はあるけれども、新しいものすべてが必ずしも進歩ではない。そう考えると、特許を認定する条件として、「ニーズがあり、誰でも思いつくものではないもの」というのは、多くの人々が一致して判断できるものとして、よい基準であると言える。

 この記事は、発明ということについての日米差をテーマにしていたが、私は、教育関係の研究や論文にもそうした日米差があることに類似性を感じていた。

 日米を比較してみると、日本における教育関係の研究は、それがどれくらい進歩的であるか、先進的なものであるかを強調しているのに対して、アメリカの研究は、それがどれくらい現場で有用であり、また需要があるのかということをまず主張する。言い換えれば、日本では、まず先進的な技術やアイデア(輸入されたものも)があって、それをこんなふうに応用してみました、あるいは役に立つということを検証してみました、という展開をする。それに対して、アメリカでは、まず現場の問題意識や問題解決の必要があって、それを解決するためには、こういうアイデアが有用であった(そしてたまたまそのアイデアは新しいものであった)、という展開をするのだ。もちろん、すべての日米の研究が、この2分類で色分けできるわけではないが、全体として傾向を比べてみるならば、こうしたことははっきりとでてきているのではないか。

 アメリカの教育関係のジャーナルを読んでいると、同じ教育領域の研究をやっていて、対象も方法論も大部分は共通なものなのに、何がまったく別のことをやっているのではないかという思いにとらわれることがしばしばある。それはおそらく「研究」という行為についての認識が日米では大きく違うからなのではないだろうか。「発明」ということについての認識が違っているように。