KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

教員の評価と学習者による検証

 大学教員の任期制について書いたら、掲示板やまぐねさんの「ハラにいちもつ」の方で反響があった。それで、任期制がうまく行くかどうかは教員の評価が適切にできるかどうかにかかっているということを書こうと思っていた。のだが。

 みぽさんの「テクニカルライター裏日記」で面白い話を読んだ。あるパソコンスクールで、出来の悪い受講生のふりをして、実はそのインストラクターがきちんと教えているかどうかを採点、評価するという仕事を請け負ったという話だ。なるほどそこまでしているパソコンスクールがあるのか。制度としてやっているのか、あるいはそのインストラクターの評判が芳しくなくて、その裏付けをとるためにやったのだろうか。

 横道にそれるが、世の中で最も態度の悪い教師は、自動車学校の教師だと確信している。今は教習所間の競争も激しくなっているので私の時よりは少しは良くなっているかもしれない。私は原付、中型自動二輪(バイク)、普通免許と三回も教習所に行ったので、彼らの態度の悪さにはほとほと愛想が尽きている。教えるという技能以前の態度の問題である。

 不適格な教師を排除するために、受講生がその教師をモニターするというのはもっと取り入れられていい。アメリカの大学では何人かのモニター学生を選び、授業と教師の評価を委託する制度が取り入れられているということを聞いたことがある。さすがである。教師と学生がお互いにチェックしあうというシステムを作り上げている。こうしておけば教師は独裁になりようがない。

 日本の大学でも自己点検評価をもっとやるようにと言われてから、学生による授業評価を行うところが増えている。私のところでもやっている。そうすることによって、たとえば、教養科目の語学はまったく役に立っていないし、学生の不満が大きいということが数字として明らかになる。しかし、それではその対策をどうすればいいのか、というフィードバックにつながらない。だから評価アンケートをして、冊子を発行してそれでおしまいだ。こういうのを不完全なシステムという(あるいはそもそもシステムとは呼べない)。

 教育工学には「学習者による検証」という原理がある。それは、教師は実際に教えるという行動をしてそれによって「教えたつもり」になることは簡単だが、実際に教えたのかどうかは、学習者がそれをできるようになったかどうかで検証されなければならないという原理だ。つまり、「教えたつもり」の排除である。その意味で教育工学は常に「学習者における成果」を重視する。

 みぽさんの行ったパソコンスクールで、進度の遅い受講生に怒鳴ったインストラクターは、いままでそうやって「教えたつもり」になってきたのであろう。怒鳴るのも「あなたのためを思って」と弁明してきたのであろう。もし学習者検証の原理を導入すれば、インストラクターの評価は、働いた時間や熱意ではなく、その受講生が最終的にパソコンを使えるようになったか否かというただ一点でなされなければならない。そうすることで、怒鳴るよりも数段効果的な教え方の必要性が初めて意識されることになる。