KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

何を書き、何を書かなかったかということ

 TUD's Diary(暫定日記)の上田さんと会った。上田さんは東京で働いているんだけど、先週から富山に帰郷していた。今日、東京に戻るというので、オフというのではなく、2人だけでお昼ご飯を一緒した。いろんなことを話したがその中の話題から。

 日記というのは、論文とか雑誌記事というのとは違って、書く前にその内容が決まっているというものではない。もちろん論文でも、書く前に書くべき内容が完全に定まっているわけではない(もしそうなら苦労は少なくなる)。だが、少なくとも、どんな材料を使って、何を書くか、ということはかなり限定されている。一方、日記では、そうした限定がほとんどない。したがって日記のように書くことが決まっていないものを書く場合は、文章作法として書き方が違ってくるのではないか、という話題。

 書くことが決まっていないときに書くのが難しい原因の第一は、それが書かれなくてもいいということである。書かなくてもなんら支障がない。自分の心の奥底にこっそりとしまっておいても全く問題はない。それをあえて書こうというので困るのだ。書く必要があることなら、人は書く。いやいやでも、泣き泣きでも、書く。しかし、書かなくても問題がないのなら、わざわざ書く人は少ない。

 これを解決する方法は、自分できまりを作ることだ。たとえば、毎日日記を書くというきまりを作る。これは少し続ければ習慣になりやすいので、意外と簡単だ。あるいは一日おきに日記を書く。これは「書く日」と「書かない日」が対等になるのでおもしろい。書かない日には、書きたくても書かないようにする。そうすれば翌日、書く日にはすんなりと書けるだろう。なお、書かない日が二日以上続くと、そのままずるずると書かなくなることが経験上知られている。だから、毎日書くか、一日おきにするか、くらいしか選択肢はないといってよい。

 書くことがきまっている日記もある。それはむしろ日誌と呼ぶべきかもしれない。業務日誌や営業日報に近い性質の物だ。たとえば、今日一日食べた物をリストアップして、体重を記した日誌など。それは形式がきまっており、何を書くかということに頭を悩ませる必要がない。それは資料的な価値はあるかも知れないが、第三者が読んでおもしろいものではない。

 ここまで書いてきてわかったのだが、日記という書き物のおもしろさは、その人が書く内容についてまったく制約のないところで、いったい何を書いて、何を書かなかったか、ということにあるということだ。つまり、その人が何を取り上げて書いたかということ自体がおもしろさの大部分なのではないだろうか。わざわざそれを取り上げて書く必要のないところで、それを取り上げて書いた。それは気まぐれかもしれないし、重要な意味を持っているものかもしれない。いずれにしてもその人はそれを取り上げ、それ以外のことを取り上げなかった。その事実そのものが日記の意味なのではないか。

 と、唐突に結論するのである。もちろんこれは、書き始める前には考えてもみなかったことだった。