KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

心地よい敗北感/「国語表現」

新潟市まで日帰り出張してきた。気分は「心地よい敗北感」といったところ。それがどういう意味かについては、日を改めて書こう。

 と、昨日書いた。

 国語を担当する高校の先生方を相手に話をしたあと、北陸道を富山に向かいながら、ふと感じたのが「心地よい敗北感」だった。その意味は、こういうことだ。

 私などが偉そうに話をしているけれども、現場の問題はそれぞれの教師が解決していくしかないのだ、ということ。当たり前のことだ。そして、そのために私ができることは、実質的にほとんどない。話をして、質問を受けて、いろいろとアドバイスしたつもりになっていても、そんなことはもうとっくに試されているのかもしれない。その経験の重みを、けっして一言では回答できそうにない受講生からの質問書を読みながら感じてしまったのだなあ。

 私などの話を聞くよりも、大村はまの実践記録をひとつ読む方がよほど役に立つかもしれないな、と。まあ、そんなことを帰りの運転をしながら考えた。なにぶん帰りの道のりが長いものだから。

 新しい学習指導要領では、高校の国語に「国語表現」というカテゴリーができている。実は、こんなことも知らなかった(ちょっと自己嫌悪)。

 その「国語表現」の目標というのは、

国語で適切に表現する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力を伸ばし言語感覚を磨き,進んで表現することによって社会生活を充実させる態度を育てる。

 というものだ。「表現力、伝え合う力(つまりコミュニケーション力だよね)、思考力」とくれば、それはまさに私たちが大学でやっている「言語表現」の目標にぴたりと合致するものだ。具体的な学習活動としては、次のようなものが挙げられている:

  • 自分の考えを明確にして,スピーチ,発表,討論などを行うこと。
  • 観察したことや調査したことを記録したり,まとめて報告したりすること。
  • 相手や目的に応じて,案内,紹介,連絡などのための話をしたり文章を書いたりすること。
  • 身近にある様々な表現を集めその効果などについて考えたり,生徒の表現活動について自己評価や相互評価を行ったりすること。

 これも「言語表現」でやろうとしていることに合致しているではないか。とりわけ、2番目、3番目の項目は「実用文」指向だ。なんだ、世の中は(というか文部省は)私たちが目指しているベクトルと同じ方向を向いているではないか。いいんじゃないかい。

 とはいえ、国語担当の教師は、この「国語表現」の授業のやり方については困っているに違いない。実際、質疑応答のときには「国語表現をどう教えていいのかとまどっている」という意見もあった。そりゃ、そうだろう。今まで読解中心の授業でやってきて、とりわけ「表現力」ということについては無視してきたのだ。「表現」について教える先生自身に「表現力」がなければ、なんの説得力もない。授業をやるには厳しい状況である。

 質疑で「一体、国語というのは何なのか」という質問が複数出てきた。私はいぶかしく思った。「自分で国語という教科を現に教えているのに、いまさら何を言い出すのか?」と。今考えると、その背景に「国語表現」という新しいカテゴリーの導入があったのだと思う。今まで、古典を教えてきた、詩や俳句や短歌を教えてきた、小説・物語における人物の心情の読みとりについて教えてきた、そういう教師がいきなり「表現力」といわれても、とまどうだろう。それで「一体、国語というのは何なのか」という問いが出てきたのだろうと推理した。

 現場の教師には、それでもがんばってほしいと言うしかない。今になってやっと、指導要領が時代に追いついたのだ。そういうことなのだ。

 国語表現の授業を実りあるものにするために、大学入試でその科目を考慮することが必要だ。しかし、表現力を測るのには、マークシートという方式はいかにも不利だ。うーん、それでもうまくやればできるかな。私のところでは、2次試験は、英語か数学からの選択で、国語は排除している。しかし、「国語表現」の内容であれば、2次試験の科目にいれてもいいかなという気がしている(個人的見解)。それがひいては、高校での国語表現の授業を実りあるものにする遠因になるかもしれない。