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鈴木孝夫『日本人はなぜ英語ができないか』

日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)

日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)

 遅ればせながら、鈴木孝夫の「日本人はなぜ英語ができないか」(岩波新書、660円)を読んだ。この本については、すでに野猿さんの紹介がある(「英語を勉強することは屈辱的だ」99/8/19)。

 著者の基本的な立場は次のようで:

アメリカ人的な社会・人間関係のあり方や行動様式を、好ましいものとして身に付けたいと思っているのか、アメリカ人の価値観や世界観などを、正しい普遍的なものと認めて受け入れるつもりなのかを考えてみることです。そうではなくて、ただ単に便利な国際交流の手段としての英語だけを学べばよいので、別にアメリカ人になる、つまり自分をアメリカ化するつもりなどまったくないのかを、はっきりと自覚的に区別しておく必要がある、ということです。

 これならゴリさんも(おそらく)大納得、という主張だ。

 著者の主張は、心情的に相手との一体化(文化的自己植民地化)をするのではなく、自分の文化を理解し、発信するために国際補助語としての英語を自覚的に利用しよう、というものだ。そのために、英米人が話す「土着英語(Native English)」を、インド、フィリピン、シンガポール人などが話す「民族英語(Ethnic English)」よりも一段高く見るような見方ではなく、国際英語として堂々と使うことが必要だという(現に彼らはそうしている)。著者は以前このような英語をEnglicと呼び、またその意味で、日本人の英語Japalishを確立しようと主張する。

 私は著者の主張に「次善の策」として賛同する。少なくとも、文化的自己植民地化するよりはいい、という意味で。しかし、問題は根本的には解決していないのだ。

 まず第一に、確かにEnglicという捉え方を獲得することによって、民族英語を話す方の心理的劣等感は軽減するかもしれない。しかし、それにしても英語をコミュニケーションの手段にしようと決心した瞬間に、「目標とする英語」が設定されるわけで、それがJapalishであるような人は少数派にとどまるだろう。大部分の人にとっての目標英語は英米人の話す正統的英語である。そしてその背後にある(彼らの)正統的文化である。日本にある英会話スクールを見ればそれはいささかも変わっていないし、これからも変わる確率は少ないといわざるを得ない。

 第二に、著者の主張は民族英語を話す方の問題だけが視野にあって、土着英語を話す英米人の心理的優越感に対してなんの考慮もされていないことだ。つまり、私たちがJapalishを話すのだ、と決心したあとにおいても、相変わらず英米人はそれを辺境における英語の一変種としてしか見ないであろうし、それは変わらないだろう。正統的英語という考え方があるからこそ日本人の英語が正統的英語を指向するのであり、これらは強固に結びついている。世界の多くの人々が民族英語を話すようになれば、この英語「間」格差がなくなるかといえば、これまでにはそうなっていないし、これからも変わる確率は少ない。

 結論としてEnglic論は、次善の策ではあるが根本的解決にはなっていない。

 ではどうすればいいのか。世界中に散らばっているエスペランチストは、すでに正解を知っているし、日本にもたくさんいる(たとえば津田幸男編「英語支配への異論」第三書館、1993)。エスペラントを使えば、第一の問題も、第二の問題も解決できる。しかし、鈴木孝夫の本にはエスペラントという単語は一度もでてこない。著者は英語を「国際補助語」として捉えようと主張しているが、そうするよりももっと簡単で副作用のない手段を人類がすでに持っていることに、気づいていないふりをしている。