KogoLab Research & Review

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荒川洋治『日記をつける』

日記をつける (岩波アクティブ新書)

日記をつける (岩波アクティブ新書)

荒川洋治『日記をつける』(岩波アクティブ新書, 2002)を読んだ。説教くさいところのない、さわやかな読後感。著者自身、日記をつけることが好きだからだろう。

つけることは自分のためなのだ。自分のしたこと、していることがわかるのだ。明日が見えてくるのだ。日記のなかには、ぼくを育てる、お客さんの姿がある。

ぼくはB5判のノートに日記をつける。細い罫線のある、横書きのもので、ちなみにいま使っているのは68頁のもの。32行あって、1行に30字から40字は書けるから、ノート全部を文字で埋めるとすると、400字詰原稿用紙220枚くらいになる。ちょうとこの新書の1冊分である。1年間を、1冊のなかに入れる。ということは、ぼくは日記というかたちで、毎年、新書を1冊書いていることになる?

寝る前のほんの2、3分。ぼくは日記をつける。今日は何をしたかと振り返る。その日の原稿を書き上げないうちは決して眠らないし、また眠れないたちなので、この10年ほどは夜が明けてから眠ることが多くなったが、仕事が終わって日記に向かうときのうれしさはない。
「終わった。さあ日記だ!」というときは、とてもうれしいものである。

そして、最後にこんなことばで締めくくっている。

 さて最後に。ぼくはどうして日記をつけるのだろう。
 日記をつけていると、自分のなかの1日のほこりがとり払われて、きれいになるように思う。1日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。ぼくはその気持ちのなかに入りたいために、日記をつけるのだと思う。時間のすきをねらって、あるいは寝る前に、

 ちょこっとつける。

 あのひとときが好きだ。それがとても、ぼくには楽しいのだ。つけるときの、そのときのために、ぼくは日記をつけるのだ。今日も、これからつけるつもり。

他人に読まれることを前提とした、Web日記への言及はない。しかし、自分だけがわかる暗号のようなものを使って書かれた日記に対して、こんなことを言っている。

自分だけがわかることばというものは、あまり意味がないもの、はかないものなのかもしれないと思う。日記は、どんなにことばが少なくても、それを見た人が、何かをいっしょに感じあえるようなところをもつべきなのかもしれない。

著者は、幸田文のエッセイは、日記から生まれているのではないかと推理する。日記を書くことから、いろいろなものが生まれてくる、という。

その日に会った人、聞いた話、したこと、思ったこと、つまり日記の材料がそのままエッセイになる。ちょっとしたことでものがさない。そして必ず自分にひきよせてその意味を考える。……

 とはいえ、これはひとごとではない。ぼくも幸田文にはとてもかなわないものの、月に10本ほどのエッセイ、それに加えて講義や放送の仕事があるので、何を書こうか何を話そうかということになる。何かひとつでも、1日のなかに見つけなくては仕事にならないのである。

書いたり、話したりすることが自分の仕事であるような人にとって、日記をつけるということは特別に意味のある行為なのかもしれない。