KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

論文文体の窮屈さ

7月も終わり。

研究室の引っ越しの準備はほとんど終わった。大量の本を含む荷物はすべて段ボール箱に詰められて、隣の部屋に整然と積み上げられて、引っ越し業者が来るのを待っている。

現在、がらんとした研究室(本当に声がよく響く)では、パソコンと本棚一段分の資料だけで仕事をしている。これでも過不足なく仕事ができているところが不思議だ。ということは、箱詰めにした本や資料なしでも十分仕事ができるということなのではないか。いや、実際はそうなのだろう。ただ捨てることができない、万一必要なことがあるかもしれないということで手元に置いてあるものがほとんどなのだろう。

投稿した論文の査読結果が返ってきた。そのコメントに「文体がエッセイのようなので、論文として似つかわしい言い回しに変えるように」というような指示が。これはほめ言葉として受け取るべきか。どこか別のところで「小説じゃないんだから……」という声も聞こえたような気がするが、これは聞かなかったことにしよう。小説というのも、もしかしたらほめ言葉? (そう書いてみるとそう思えてきた。「小説みたいな論文だね」って言われたら悪い気はしないじゃない?)

冗談はともかく。エッセイみたいなものばかり書いてきたから、すっかり論文文体が窮屈に思えるよ。論文文体の窮屈さは、やはりなんとかすべきもののひとつかもしれない。

「決められた様式や形式は守るべきだ。書く内容については自由が保証されているのだから」と私自身が教えている。しかし、文体についてはどうだろう。論文に特有の言い回しというのはたくさんある。その文体に引きずられると、内容やその論理展開までもが影響を受けそうな気がするのだ。