科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)
- 作者: 戸田山和久
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2005/01
- メディア: 単行本
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独立性テーゼYes、知識テーゼYesなのが、科学的実在論。独立性テーゼYes、知識テーゼNoなのが、反実在論。そもそも独立性テーゼNoなのが観念論、現代の社会構成主義。で、著者の戸田山さんは、科学的実在論を擁護する。あれれ?そうだったのか。2004年の日本心理学会のシンポジウムで、私はこんなメモを書いていた。
「臨床の知・統計の知・教育の知」というシンポジウムを聞く。指定討論で出てきたのは、戸田山和久さん。あの『論文の教室』の著者。こんなところでお目にかかれるとは。
彼はまず「心理学者は古い科学のモデルにこだわっておられるようですね」と挑発する。こういうことだ。古い科学のモデルでは、主張を正当化するのが方法だった。じゃあ、その方法を正当化するのは何かという話になると無限後退してしまう。そこで今の科学のモデルは、3項のバランスなのだ。その3項とは、「知識・方法・目的」だ。目的に照らして、その方法や知識が有効なのかどうかを査定するわけだ。
これはガーゲンも言っていることだな。よく考えると、今の科学は「全体として目的論」なのかもしれないよ、これは。でもこれも考え直すとごく自然なことだ。目的というのは舵のようなものであって、それがなければ、方法というエンジンがあっても無軌道になってしまうということだ。そこを人類は反省してきたのでしょう?
このメモの文脈で社会構成主義を支持するのかと思っていたが、この本ではそうではなかった。逆に「現実が社会的に構成されているとするなら、20階から飛び降りますか?」と社会構成主義者を批判する。
どう折り合いをつけたものかなあ。
反実在論の中に、構成的経験主義という立場があるらしい。ファン・フラーセンという人は、「経験的に十全な理論」を作るのが科学の目的であると主張する。経験的に十全な理論というのは、観察可能な領域での主張がすべて正しいことであり、これなら、世界を知らなくても経験の範囲内で20階から飛び降りるのはやめておこうと思う。
これって「かのように理解」(as if understanding)だよね。本当のところはわからないけれども、こんなふうに理解しておこう、もしそれがうまく機能するとすればOKだ、と。
最後に、文で表現された公理系と実在を対応づけようとする、文パラダイムによる科学理論ではなくて、公理系と実在の間にモデル=理論を置いて、モデルでは実在からの抽象化(重要なポイントを取り出すこと)と理想化(現実には不可能な条件を満たすとすればで考える)を行うとする意味論的な捉え方をしようと主張する。これは心理学者はいつでもそうやってきたので違和感がなかった。
本全体として、クリティカルな例として物理学での電子などの見えないものを一貫して取り上げているんだけれども、無意識とか動機づけとかメタ認知とか、見えないどころか、そもそもあるかどうかも怪しいようなものを相手にしてきた心理学をやっている身としては、電子みたいのがあるだけいいよとも思えてしまいます。
あとは、因果が循環するようなシステムの研究かなあ。それから、社会構成主義というのは、科学者の立場がどうかというのではなく、普通の人が社会的に構成されたものを媒介に日々生きているんだというところにポイントがあるように思えてきた。